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理系院卒のネットワークなブログ

意外なところに「つながり」ってありますよね

シン・ゴジラと社会人一年目の僕

 

 

シン・ゴジラの内容に触れている部分があります。

 

 

ネタバレを気にする方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、シン・ゴジラはすごいらしい。普段映画館に足を運ぶことは少ないのですが、周囲のざわつきが相当大きかったので見に行ってきました。

 僕は映画に詳しいわけではありませんし、ゴジラに思い入れがある人間でもないです。映画のレビューを書こうという気持ちなどさらさらありません。ここで僕が書きたいのは、社会人一年目の今この映画を見ることができて本当によかったという心の叫びです。

日本的組織 

 社会人生活が始まって4か月ほどが経ちました。企業の一員として働くというのがどういうことか、なんとなく実感として掴めてきました。たくさんの人が集まり、組織として意思決定をしていくことが、どれだけ難しいことかを痛感する毎日です。

 シン・ゴジラの序盤、時間を大きく割いて描かれるのは、内閣総理大臣を中心とした日本政府の動きです。「会見を1つ開くのにも会議が必要だなんて」という意のぼやきが誰かの口から洩れていましたが、ぼやいている間にもゴジラが街を蹂躙している様子を見せられている僕からしたら、たまったものではありませんでした。おいおい、早く手を打ってくれよと。

 学生の時にこのシーンを見たら、「やっぱりお役所仕事はダメダメだな」と思って憤慨しただけだったでしょう。でも、今の僕の目には違った映り方をします。

 最近、「こんな小さなことなのに関係各所の許諾がないと前に進まないのか」と、歯がゆい気持ちになる業務をいくつかこなしました。リアルタイムでお客様が困っていることに対しても、僕だけの判断では事態を動かしていくことができませんでした。しかし、組織が規律を保ちながら意思決定を重ね、今後の関係性も含めてリスクを最小化するためには、必要なプロセスなのだと徐々に理解が進んできました。

 日本政府というのはこの国における究極の組織です。ザ・日本的組織である日本政府と、急速に進化を続ける巨大不明生物の戦い。それは、難局に対処する日本企業の姿と重なって見えました。

 1回目の襲撃時、政府はこれでもかと醜態をさらしました。意思決定に時間を要して被害が拡大。ようやく武力行使に踏み切れるかと思いきやトップが保身に走って1発の反撃すらできませんでした。

矢口蘭堂の活躍

 この映画を今見ることができて良かったなと思う理由は、矢口の活躍の仕方が非常に日本的だったことです。上述したような絶望的な状況の中で、スーパーマンが表れてゴジラを撃退するのではなく、あくまでも日本の官僚組織がゴジラをやっつけるところまでを描いてくれたこと。これは本当に素晴らしかったです。

 矢口は非常に優秀な男ですが、稀有なスキルを持っているわけではありません。矢口の周りにいる人たちが自分の得意な分野で力を発揮することで小さなパワーが集まっていき、それが最後にヤシオリ作戦としてゴジラに炸裂するのです。

 今後、何かのリーダーを務めて人を束ねるときは、矢口の活躍が頭をよぎるようになるだろうなと思うのです。日本的組織の中でどうやって自分の信念を貫くか。反発するだけでは物事を前には進めていけません。あらゆる手段を使って、あくまでも組織の規律の中で結果を出して行くことが僕にも求められるでしょう。夢を語るだけではダメなのです。実際に行動に移していかないといけない。血液凝固剤があったらいいな、ではなく、どうやって作るかを考え、プランを着実に実行していく力が必要です。

 彼は自分が首切り要員であることを自覚し、保身など微塵も考えずにゴジラを倒すことだけを考え続けました。冷静沈着を装いながらも、必要に応じて強い感情を露わにできる人物。本当にかっこよかったです。あんな風になりたいと思いました。

 一方で、フォロワーたちの活躍もよかったです。巨災対の面々は奇人変人の集まりということでしたが、自分の担当分野をきっちりとわきまえ、積極的にチームにコミットしていきます。矢口がきちんとわかるように丁寧な報告も欠かしませんでした。

 あのチームは日本的組織の中でしばしばつくられる、組織横断的な特別チームの理想形なのだと思います。僕の会社にもそういうチームがありますが、自分の部署の利益になるかどうかをみんなが考えてしまっているような雰囲気があると聞いています。危機感の度合いが違いますので同じ次元で捉えることはできないとは思いますが。

映画のしがらみ

 会社が映画事業に一部関連を持っているため、映画製作について少しレクチャーを受けたことがあります。俗に言う制作委員会方式がどのようなものかを聞いたとき、最初は合理的なシステムだなと思いました。

 ですが、「あの会社が絡んでいるからあんな演出になっているんだよ」などと細かい裏話をいくつか聞くと、このやり方で面白い映画を作ることが至難の業なのではないかと考えるようになりました。むしろ、様々な方面の関係者から口出しを受けながら作られた邦画が、筋の通った映像作品として成立しているのは逆にすごいことだなと思ったほどです。

 映画制作会社そのものの力が衰え、テレビ局が持っているコンテンツを使って映画がつくられるいまの時代、映画というのは様々なしがらみにとらわれた悲しき産物なのだと知りました。これも、学生のころには実感を持って理解できなかった映画の側面です。映画はエンターテインメントでもなく、芸術作品でもなく、生々しい企業活動の一環である。レクチャーを受けて以来、僕は映画をそのように捉えていました。

 そんな折の大ヒットでした。シン・ゴジラは制作委員会方式を採らず、東宝単独で制作した映画だそうです。経済的合理性を捨ててまで、監督が作りたい映画を作らせる。とにかく面白い映画を作る。こういう決断を日本組織はできるのだなと感動すると同時に、しがらみに縛られない映画はこうも人々を熱狂させるパワーを持ちうるのかと、映画の底力に感動を覚えました。

映画ってやっぱりすごい

 映画に詳しくないから、ゴジラの歴史を知らないからといって、僕はそういう知識を取り込むことを諦めているわけではありません。ネットには複雑なことをわかりやすく説明してくれる人、細かいところだけど大事な部分を力いっぱい説明してくれる人であふれています。

 皆さんの考察を読むのはすごく楽しいです。映画には、こんなにいろいろ考えることがあるのだなとその奥深さを知り、深い井戸のへりに立っている気分です。覗き込むと真っ暗で底が見えません。そして、それだけ考察する余地を作った庵野秀明監督の力量に脱帽です。

 一人だけ浮いているなと思っていた石原さとみさんの演技さえ、解釈によっては非常に味わい深いものになる。映画ってこんなにすごいものなんだと、20年以上生きてきてようやく気づきました。シン・ゴジラ、いま見ることができてよかった。幸せです。ありがとうございます。

 

 

そのほか、映画やエンタメについて。

 

 

 

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何かを批判する文章を書くことは簡単だと思った

 ポケモンGOのブームがひと段落してきた印象です。このゲームに関する意見や批評もあらかた出尽くしたのではないでしょうか。

批判の嵐の中で輝いていたもの

 ネットでポケモンGO関連のニュースを漁ってみると、否定派の言動が目立ちます。氾濫するニュース記事やブログを全部分析したら、8割がぐらいが否定派なのではないかなと勝手に思っております。8割とはいかずとも、否定派が多いということが仮に正しいとすると、その理由を解説するにはいくつかの切り口が挙げられます。

 このゲームのシステムそのものが問題だらけであるという切り口。日本人は新しいものを受け入れる寛容さに欠けた民族だという切り口。批判した方がお金になるという人間が声高に批判しているという切り口。

 最近僕が思いついたのは、批判する方が簡単だからという切り口です。きっかけは、少し前に書かれたものですが、以下の文章を読んだことです。ポケモンGOを純粋に楽しみ、技術の進歩に感動したことが綴られています(もうちょっと深いメッセージが込められているのでぜひ読んでみてください)。

 こちらの文章のように、何かを褒めることを主旨として文章を書くのはすごく難しいと思います。一歩間違えればただただ「楽しい!」とか「すごい!」と叫んで終わってしまいます。僕にはこれは書けないし、こういう内容で拡散されている文章はほかにはあまり見受けられませんでした。

なぜ批判するのは簡単か

 この文章を読んでしばらく経ってから改めて考えてみると、批判するのって簡単だなと思ってしまうのです。特に、何か新しいモノについての批判を展開するのはものすごく簡単。「新しいモノは既存のモノとは違うからこういうことが起こる可能性がある!」と書けば一丁上がりです。

 ポケモンGOは今までのゲームとは違って外でプレイするゲームだ。だから夢中になって川に転落する恐れがある。危険だ。プレイヤーが川に落ちないように何らかの対策が必要だ。

 意味がないとは思いません。誰も思いつかなかった大問題に光があてられるかもしれません。だから止めてくれとは思いません。でも、あまりにもネガティブな反応ばかりを見ているのはあまり気分が良いものではないですよね。

褒める文章が読みたい、書きたい

 ポケモンGOに限らず、何かを褒める内容の文章が公開される割合は、批判するものよりも少ないと思います。もちろん媒体や扱う内容によりけりだとは思うのですが、価値がないと考えられている節があるのかもしれません。

 僕はそんなことはないと思っています。例えばポケモンGOに関することでしたら、こういう楽しみ方があるんだという発見や、こういうユーザにこういう楽しさを届けたからヒットしたんだという学びがあるはずです。

 堅めのニュース記事でも、褒める記事を出してみれば目立つのになと思います。本来はバランスのとれた中立的な内容を掲載すべきはずのメディアには、なぜかネガティブな方に振れたものを書かないとダメだという暗黙の了解があるようにみえます。賛否両論あることはきちんと伝えつつ、ポジティブな面を押し出した文章が読みたいです。気分が良いですから。

 僕も何かを手放しに褒めるちぎる文章が書きたいです。結局、ここまで書いてきたこの文章も、「批判すること」を批判する内容で展開してきたにすぎないのです。

 

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純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)

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PvPアプリゲーム(クラロワ・シャドバ)のヒットから考えるこれからのゲーム

 最近、クラッシュロワイヤルとシャドウバースというスマホゲームにハマっています(もちろんPokémon GOもやっていますが)。僕の観測範囲の中ではなかなか流行っているこの2つのゲームに、僕はなんとなく時代の潮流を感じます。スマホゲームが今後どうなっていくのか、少し考えてみたいと思います。

簡単にゲーム紹介

 クラッシュロワイヤルを簡単に説明すると、兵士を召喚して敵の城を落としあう1対1のリアルタイム戦略シミュレーションゲームとでも言えるでしょうか。Supercell社が開発し、世界中で驚異的な売り上げを誇っています。

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https://play.google.com/store/apps/details?id=com.supercell.clashroyale&hl=ja

 

 一方、シャドウバースは1対1のカードゲームです。遊戯王を少しシンプルにしたものだと僕は捉えています。Cygamesが開発しました。

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https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.cygames.Shadowverse&hl=ja

 

勢いに乗るPvPゲーム

 これら2つのゲームはどちらもPvP(Player vs Player)型のゲームです。同時刻にアプリを開いている二人のプレイヤーがランダムに選ばれ、対戦を行っていきます。ひと昔前のアプリゲームのスタイルは「与えられたクエストをクリアしていく」形式が多かったので、日本人にとっては少しなじみの薄いゲーム形式ではないでしょうか。 

 僕が最初クラッシュロワイヤルを開いたときは衝撃を受けました。PvPゲームをやるのだから、十分な練習を積んでから本番に挑戦させるものだと思いきや、少しのチュートリアルが終わるともうすぐに実践投入。ガンガン他人と戦わせるのです。このスピード感はすごいなと思いました。

 クラッシュロワイヤルはPvPがすべてであり、四の五の言わずに人と戦えと言わんばかりのゲーム設計がなされています。見てくださいこのホーム画面。でかでかと光るバトルのボタン。

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 頑強なサーバと世界中にいるたくさんのプレイヤーたちのおかげで、バトルボタンを押したら一瞬で相手が見つかり、戦いに突入してしまうこのゲーム。1試合は長くても4分。どんどん他人と殴りあうことになります。

なぜPvPが流行るのか

 PvPで負けるとものすごく悔しいのです。個人的にはクエスト型のゲームの比じゃないぐらいに悔しい。相手が自分と同じ生身の人間であり、対等な条件で真剣に戦った結果、自分の力が及ばなくて負ける。身もだえするほどの悔しさを味わいます。

 運営側はこの悔しさを課金につなげるわけです。負けた悔しさで頭がヒートアップし、思わず勢いで課金してしまう。そんな人が多いのではないかと思います。もちろん、課金すればしただけ強くなってしまうようでは、札束で殴りあうだけのゲームになってしまいますから、その辺のさじ加減は課金設計者の腕の見せ所です。

 他人よりも優れた自分でいたい。それはおそらく人間の根源的な欲求だと思います。PvPのゲームは1対1で戦うので、その欲求が直接的にくすぐられます。勝てば目の前のコイツよりも優れていることが証明されるわけですからね。

 日本ではPvPのゲームがマスに大ヒットすることはありませんでした。パズドラやモンストは仲間との協力要素はあるにしても、プレイヤー同士が直接戦うものではありません。

 海外を中心に展開してきたPvPのゲームが日本にもじんわりと浸透してきて、主に若い世代を中心に認知度を増しているように思います。ヒットタイトルが続々と生まれたことに加えて、端末の高スペック化が進み、より高度な遊びがスマホ上で展開されるようになってきたのが原因ではないかなと考えております。

ゲーム機との関係

 スマホ上で動くPvPゲームはリッチさを増してきています。しかし現在、格闘ゲームのような素早い入力を伴うゲームにはまだまだ対応しきれていません。クラッシュロワイヤルは兵士を召喚する場所を選んだら、あとは傍観するだけで、操作を加えることはできないのです。

 格安スマホとの二極化の動きはあるものの、スマホに搭載されるCPUパワーは上昇の一途をたどっています。いずれ、格闘ゲームFPSのようなジャンルにも対応できるだけの端末が登場するでしょう。流行るかどうかは別にして、技術的には可能になるはずです。

 そうなったとき、ゲーム専用機の立場はどうなるでしょうか。もはや、スマホ上で遊べないゲームはない、という状態になる日が来たとき、立場が危うくなってしまうのではないでしょうか。ゲーム専用機のスマホに対する優位性として僕が思いつくのは、物理ボタンと大画面ぐらい。DS系統の2画面というのは今考えればイノベーションですよね。2画面を持つスマホもありますが変態扱いされていますから。

 結局、ゲーム会社が専用機でしかソフトウェアを開発しないからハードを買うしかないという、なんとも不健全な状態になってしまう可能性があると考えています。それを防ぐためにも、ハードウェアの革新が期待されるところです。

ゲーム専用機の今後

 今後ゲーム専用機がクリアしなければならない課題は、スマホでは実現できない遊びを提供することでしょう。その1つの動きがVRだと思います。VR体験はスマホではどうあがいても実現できない遊びです。

 一方、スマホゲーム側としても、単純にゲーム専用機の後追いを続けていても面白くありません。スマホコールオブデューティができるようになったとして驚きはあるかもしれませんが、小さい画面でプレイすることが本当に楽しい体験になるかは怪しいです。

 だから、スマホ側もゲーム専用機にはできないことを模索していく必要があるのではないかと思います。その方向性の1つを、Pokémon GOは示してくれたのではないでしょうか。

 スマホは誰もがひとり1台、ポケットにいれて持ち歩くものです。家に置きっぱなしになりがちなゲーム機とはまったく違う特性を持っている。だから、歩き回ってポケモンを捕まえるPokémon GOのようなゲームはスマホ上でしか実現しえないゲームなのだと思います。

 つまりここで展開してきた論をごく簡単にまとめると、ハードウェアの特徴を生かしたソフトウェア開発をすべきだという当たり前の結論にしかなりません。しかし、手元ばかり見ているとそういう一歩引いた目線を忘れがちになるのではないでしょうか。

 任天堂だけでなく、Appleが得意な手法ですよね。ゲームだけでなく、どんな分野にも言えることだと思います。今日はここまでです。

 

  そのほか、ゲームについて考えたこと。

 

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ポケモンのゲームが世界で大ヒットした理由 - Pokémon GOブームの裏側

 スマートフォン向けアプリ「Pokémon GO」がオーストラリア・ニュージーランド・アメリカでリリースされ、反響を呼んでいるようです。ダウンロード数だけでなく、セールス(課金の売り上げ)ランキングにおいても並み居る強豪を押しのけ1位にランクインしたということで、単なる話題性だけに留まらない人気になっているのではと期待しています。

 現実世界を歩き回るというこのゲームの特性上、見知らぬ人同士で交友が生まれているようです。今までのゲームの常識を覆す楽しみ方ですね。

 バーチャルな世界とリンクしてビジネスにつなげようという動きも見られます。

Pokémon GOのヒットの裏にあるもの

 このアプリがヒットの要因を考えてみると、ポケモンの高い知名度が貢献していることは疑いようがありません。ではいったい、ポケモンが世界中でなぜ人気になったのでしょうか。

 この問題を考え出すと様々な要素が複雑に絡んでくるので分析は容易ではありません。ポケモンがどのような形で輸入されたのかは国によってさまざまで、ゲーム・アニメ・カードゲームなど、色々な媒体を介してポケモンは世界に展開されていったからです。

 ここでは少し問題を絞って、ポケモンのゲームがなぜ世界中でヒットしたのかを考えてみたいと思います。

 私は幼稚園のころにアニメでポケモンを知り、ポケモン赤緑に熱中した世代です。ポケモン赤緑は日本だけでなく世界中で大ヒットとなり、一躍ポケモンの名を世界に知らしめました。

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 私はアニメからこの世界に足を踏み入れたものの、ポケモンの原点はゲームにあります。ゲームのヒット要因を考えることは、ポケモン全体のヒット要因を考えることと大きな相違はないでしょう。

ポケモンのゲームが世界中でヒットした理由

 ポケモンのゲームがヒットした要因と話題を絞ったものの、依然として切り口はいくつもあると思います。最近、1つの筋に絞った考え方を思いつきました。それを下の図を使いながら説明していきたいと思います。

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スタート時:何も持っていない自分

 「ポケモンのゲームの主人公は誰?」この問いに答えられるでしょうか。ポケモンのゲームの主人公には名前がなく、一言もしゃべらず、性格も不明、家族がどういう人なのかもわからない作品もあります。開始時にはポケモンを一切連れておらず、道具の1つも持っていません。何も持っていない存在。まさに「まっさら」な存在として、私たちの前にその姿を現すことになります。

 私は幼いころ、ポケモンのゲームの主人公は自分自身だと思い込んでプレイしていました。十字キーを押して画面上をてくてく歩くこのドット人形は自分そのものなのだと思ってプレイしていました。

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 ゲームを開始した時点では、私はこの世界について何も知りません。そんな自分のかばんに最初からモンスターボールが入っていたり、ピカチュウを連れていたりしたらちょっと奇妙だと思いませんか。完全にまっさらな状態から始まるから、私はこの主人公に自分を投影できていたのだと思います。

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 ポケモンの世界は現実世界に似たテイストで作られています。剣と魔法の異世界ファンタジーにすることも可能だったはずですが、そうなってはいません。世界観設定が自分自身を投影することを妨げないようになっています。

 主人公が自分自身だからこそ、携帯ゲーム機を持ち寄って友達と通信をすることにも、単にゲームをする以上の価値が生まれます。通信ケーブルを介して対戦・交換を行うのはゲーム上の主人公ではなく、「オレとオマエ」なのです。対戦で負ければ本気で悔しいですし、交換でもらったポケモンは大切にしたくなります。ゲーム上のデータのやりとりではなく、生身の人間同士のやりとりだからです。

 主人公が自分自身のゲームというのは、当たり前のように見えて実はあまり多くありません。ドラクエファイナルファンタジーといった同じジャンルの巨人たちは、各タイトルごとにキャラの立った主人公を操作します。マリオやゼルダもいわずもがなです。

 自分自身が広大なポケモンの世界を旅できるような主人公の設定になっている。主人公の造形1つとっても、意外と画期的だったといえるでしょう。

序盤:パーティの形成

 ポケモンのゲームは絶対に、3匹のポケモンの中から1匹を選んでパートナーにするところから始まります。この時点でいきなり、プレイヤーの道は3つに分岐します。さらに、旅を進めるうちに多種多様なポケモンが飛び出てきて、自分の思い思いのポケモンを育てていくことになります。

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 自分のお気に入りのポケモンだけを使っていいし、どう見ても強くないポケモンを使ってもいいのです。幼いころの私にとって、自分だけのパーティを作っていくその過程は、本当にわくわくしました。今考えてみると、パーティ作成は自分の個性の発揮の場として機能していたのではないかと思うのです。

 「オレのパーティすごいだろ」「この組み合わせを選ぶオレのセンスを見れくれ」。こういう感覚は、自分がこの世界で唯一無二の自分であることを保証してくれるものでした。つまり、自分の中でアイデンティティが形成されていく過程だと捉えることができます。

 また、ポケモンという生き物の設定にも特徴があります。ポケモンの世界には同じ種類のポケモンがたくさんいます。元気なピカチュウもいればおとなしいピカチュウもいていいように、それぞれ1匹1匹が個性を持っていることになっています。「オレのピカチュウ」と「オマエのピカチュウ」は全く別個のものとして存在し得るのです。

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 自分だけのパーティを組み、なおかつ、それぞれのポケモンはオレだけのポケモン。他人とは違う、「オレとコイツら」だけの物語がゲーム上では展開されます。それもまた、自分だけの個性として自分の中に蓄積されていきます。

  一方で、他のキャラクターはどうでしょう。ミッキーマウス、トトロ、ジバニャン…。どれもこれも唯一無二の1匹です。無限に存在し得るピカチュウというキャラクターはなかなか特殊な立ち位置を持っています。

 自分のアイデンティティを確立したいという想いは無意識の欲求です。この要素を満たすゲームはたくさんあると思いますが、ポケモンにおいてはパーティ作成がこれを担っていました。

中盤:活躍

 このゲームは各地のジムを回ってジムバッヂを集めることが1つの目標になっています。ジムバッヂを全部集めろという指示が最初に出て、その大目標に向けた自分の進捗具合がわかりやすく確認できるフォーマットとなっています。レポートを書くときに毎回バッヂ何個と出るのが嫌でも目に入るので、自分の現状は常に頭に刻みつけられます。

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 また、悪の組織との対峙も必ず行われます。彼らは非常にわかりやすく「悪」であり、ゲームの進行上彼らを成敗することになっても、私たちに疑問は浮かびません。悪事を働いてはいけないというのは幼いころから言われ続けた絶対の価値観だからです。

 以上の2点により、このゲームでは主人公である自分が活躍し、成長している様子がダイレクトにフィードバックされるようになっています。アイデンティティ形成の次は成長です。バッヂをこれだけ集めた、悪の組織を壊滅させた。これらは疑いようのない客観的事実として自分の成長を裏付けるのです。

 たとえゲーム内であったとしても、人から褒められるのは嬉しいことです。「ロケット団を追っ払ってくれてありがとう」。幼い私の心にはそんな言葉でさえ響くものです。とはいっても、この要素はどんなゲームにも大抵備えられていますけどね。

終盤:挫折と困難を乗り越える

 四天王は誰の目にも明らかな難関です。ゲーム内のキャラクターも再三にわたってそれを教えてくれますし、実際に挑戦してみると、これは今までとは違うなと感じるわけです。特にゲーム性を完全に理解していない子供ならなおさらです。

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 私自身、赤緑や金銀をプレイしているころは、四天王を倒すのに必死になっていました。初めて目の前がまっくらになり、チャンピオンロードで泣く泣くレベルあげをしたことを覚えています。だからこそ、勝てたときの嬉しさはひとしおでした。

 ポケモンのゲームに、必勝の攻略法はありません。なぜなら、ここまで到達する間に、人それぞれのパーティが組みあがっているからです。

 フーディンがいるからシバとキクコは楽勝だけどワタルに勝てない等と、自分が抱えている問題点は他人のそれと一致するわけではありません。カメックスに冷凍ビームの技マシンを使うことがこの場合の最適解かもしれませんが、ヒトカゲを選んだ友達にとってこの解はそもそも選択肢にありません。

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 目の前の課題に対して、自分なりの答えを用意して、試行錯誤の末に解決する。これほど達成感が得られることがあるでしょうか。ポケモンのゲームは表層的なゲームの楽しさではなく、深いところで達成感を与える仕組みになっているのです。

クリア後:終わらない自己実現の旅

 ポケモンのゲームに明確な終わりはありません。ラスボスを倒しても、自然な形でゲームが続いていきます。他のゲームに目を移してみると、ラスボスを倒した後にエンディングが流れ、結局倒す前の地点に戻ってしまうものや、それ以上の追加ステージがないため実質的にゲームが終わってしまうものが多かったのではないかと思います。最近はそうでもなくなりましたが。

 ポケモンには言わずもがな、ポケモン図鑑を完成させるというなかなか難しい大目標が用意されています。それに加えていろいろとやりたいことが出てきます。手持ちのポケモンをすべてレベル100にしたくなります。友達とバトルすると、バトルに勝ちたいという欲求も生まれます。縛りプレイをする人もいました。

 そして、ポケモンの持つちょっと不思議な世界観は、裏ワザの検証に僕らを向かわせます。たとえば金銀のウバメの森のほこら。幻のポケモンセレビィの存在が映画を媒体にして知らされると、どうやってセレビィに出会えるのかと僕らは躍起になりました。「きんのはっぱ」と「ぎんのはっぱ」を集めると登場するなどといった噂がどこからともなく流れてきては、私たちを熱狂させ、そして失望させました。

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 四天王を倒した後に何をするのかは、私たちの自由でした。私たちは自分なりに課題を見つけ、それに対する解決策を探しました。与えられた課題をただこなすだけではないこの過程は、もっともクリエイティブな活動だと言ってしまってもよいと思います。

 私たちは小学生にして、ここまで述べてきたステップを自然に駆け上がり、この高みにたどりつきます。今まで固めたきた土台を元に、自己実現の旅を続けるのです。

まとめ

 お気づきの通り、筋の通った説明にするためにマズローの欲求階層説になぞらえて論を展開してみました。ちょっと強引だと思われたかもしれませんが、このフォーマットは説明がしやすいのです。

 先進国で暮らしている限り、1段目:生理の欲求、2段目:安全の欲求、3段目:社会的欲求は、ゲーム以外のところでたっぷりと満たされています。その前提のもとでポケモンのゲームは自分自身の投影である主人公が、4段目:承認の欲求、5段目:自己実現の欲求を追い求める旅そのものであると主張させていただきました。

 世界中の人々にゲームがヒットした理由を考えるにあたって、人類に普遍的な切り口が必要だろうと考えたのです。文化や習慣は思った以上に深く僕らの趣向性に根ざしています。それらを超越したヒットの理由を仮説を立てるに当たっては、人類に普遍の欲求が一番理にかなっているのではないかと考え、この説をまとめてみた次第です。

 もちろんこれがポケモンのゲームがヒットした要因のすべてではないと思っていますが、ちょっとでも面白い分析だと思ってもらえれば幸いです。

 さて、Pokémon GOはここで説明した要素をどれぐらい持っているでしょうか。スマホ用に最適化されているはずなので、一部は省略されているかもしれませんね。ですが、位置情報やARといった今までにない技術が、ポケモンを次のステージへと引き上げるゲームになっていたらいいなと期待しながら待つことにします。

 

画像は「ひこちゃんず!」さんのものを使わせていただきました。

http://hikochans.com/

 

以前書いたポケモンについての文章たち

 Pokémon GOを開発しているNiantic社の社長のお話を直で聞く機会があって、そのお話がとても面白かったことを書きました。

 

 ポケモンの世界でモンスターボールがどのように売られているかを分析したネタ話です。 


 ポケモンで冒険を繰り広げてきた私たちに、怖いものはありませんね。

 

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言語化できないから会議で発言できないしブログも書けない

 社会人1年目の6月も半分が過ぎました。学生の頃は頻繁に更新していたこのブログですが、投稿頻度が落ちてしまいました。

 死ぬほど忙しく働いているわけではありません。適度な残業をこなしつつ、楽しく働いています。新しい趣味に打ち込んでいるわけではありません。社会人の先輩から大人の趣味の話が聞こえてきますが、ただの伝聞にすぎない状況です。

 文章を書くことに飽きたのではありません。むしろ、頻度が落ちているので何かを書きたいという欲求がたまっています。そして書きたいことがないわけではありません。社会人になりたての時期です。大学院生だった去年とは全く違う刺激に満ちた世界を生きています。「文章を書きたい」というトリガーは頻繁に引かれています。でも、1つのまとまった文章を構成するだけの想いが自分の中から取り出せていません。

ブログが書けない理由

 現在僕が直面している問題は言語化することの難しさなのではないかという考えが、ついさっき頭をよぎりました。日々の仕事の中で感情は確実に揺さぶられていて、この感情の動きについて深く考察し文章を書きたいのに、そもそも自分の感情がどんなものであるか言語化することができていないのではないか、と。

 文章を書くときは筋道が一本決まれば書き始められる人間なのですが、そもそも筋が通らないのです。ぼやっとしたまま像を結ばず、ふと気づくと感情の揺れは収まってしまっています。ブログは更新できず、気持ち悪さだけが後に残ります。

会議で発言できない理由

 言語化することって難しいなと思い至ったのは、ブログについて考えていたときではなく、業務のことを考えていたときです。

 複数人で打ち合わせを行っているときに、A案かB案かで議論になります。僕はなんとなくB案がいいのではないかと思って、その理由を必死に考えます。ですが、B案を推薦する理由をロジカルに組み立てられません。発言を渋っているうちに、A案に決まってしまう。こんなことが何度かありました。

 まだ新入社員だから発言しなくても咎められることはありません。僕には議事録を作成するという大義名分があります。しかし、上司に注意されないからといって、議事録を書くためだけに会議に出るのは嫌です。この現状を変えたいと思っています。自分がB案がいいと強く思ったなら、誰もが理解できる理由をつけてB案を主張したいです。

 しかし、言葉にできないのです。B案がいいと思う理由を。ロジックを組み立てられない。「なんとなくこの辺の要素がこんな感じだからB案」程度の考えしか浮かんできません。これでは自信を持って発言することができません。発言したところで理解してもらえるか怪しいです。A案派の人に論破される未来しか見えません。

失ってみて気づくデータという存在

 自分は議論ができない人間だったわけではないのになと昔を思い返してみると、大学院時代に先生たちとまともに議論ができていたのは、拠って立つべき論拠があったからだと思うのです。それは自分がシミュレーションで算出したデータです。

 数字は自分のロジックを構成する確実な1ブロックになってくれます。自分よりも一回り以上歳の離れた先生に相対し、自信を持って自説を展開できたのは、データがあったからなのではないかという考えが浮かびました。今更になって新しい発見をした気分です。要素Cが2倍になるからA案ではなくB案が適切だ。これなら自信を持って発言できるはずなのです。

 では、これから僕が何に気を付けて会議に出席するべきかということを考えてみますと、「発言するときはきちんとした根拠を示し、筋道立てて説明すること」という当たり前の標語みたいな結論にしかなりません。もうちょっと難しい問題で悩んでいたはずなのですが…。

 ビジネスの世界では「データもなければ前例もない」みたいな状況で意思決定をすることがあります。1つずつsomething newを積み上げていく理系の研究ではなかなか遭遇しない状況なのではないかなと思います。難易度の高い課題でしょう。そういう場面でもいかに筋道立てて思考を展開するか、ということは訓練していきたいなと思います。

身もふたもない結論

 冒頭の話題に戻って、ブログが書きたいけど書けない、自分の想いを言語化できないという問題の原因は何なのでしょう。

 ここまで書いてきて浮かんだことは、自分の心のもやもやの本質が掴めていないから文章が構成できないわけで、じゃあ本質を捉えるにはどうしたらいいのかというとひたすら考えなければいけないわけですよね。結論として思考に耐えうるだけの気力が残っていないこと、つまり単純に疲れているだけなのかもしれないなと思いました。慣れない仕事場で必要以上に気を使っているので、自分が思っている以上に精神的に疲労しているのかもしれません。

 ああ、なんて身もふたもない結論。土日にゆっくり休んで体力を回復させます。

 

 研究室の先生との関係がすこし懐かしくなってきました。

 

言葉にできない~小田和正ベストカバーズ

言葉にできない~小田和正ベストカバーズ

 

 

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社会人生活のために勉強ではなくスナック通いをしておけばよかった

 入社1年目の五月、配属が決まってしばらくが経ちました。いきなりですがみなさん、土日は何をして過ごしていますか?

ご趣味は?

 先日、偉い人との飲み会でその話題になり、「一人暮らしを始めたばかりなので家事に追われています・・・。」と答えたら、「趣味とかないの?」と聞かれました。学生時代はずっとバスケをやっていましたが、社会人になってからはできる環境が見つからず、趣味とは言えない状態になっています。「ゲームしたり、本を読んだりします」と答えたところ、「つまらない人生だねえ」と一言。ちなみにその人は学生のころから風俗遊びが大好きだそうです。

 自分で言うのもアレなのですが、中学校の頃からずっと勉強を頑張っていました。おかげでそこそこの高校・大学に入れましたし、大学院試験免除、大学院学費免除、奨学金返済義務免除など、様々なご褒美をもらいました。勉強はいずれ役に立つものだと思い込んで真面目に取り組み、そこそこの対価を頂いてきました。勉強をしておけば間違いないと思っていた節があります。

 しかし社会人になって、ちょっとだけその価値観が揺らいでいます。脇目も振らず勉強してきた結果、自分はつまらない人間になってしまっているのではないかと。勉強とそれ以外の趣味を両立しなければならなかったのではないかと。

スナックに通う若者

 最近知り合った20代のデキる人が、「学生のころからスナック通いが趣味なんです」と言っていました。周りにいたおじさんはみんな食いつきましたし、僕ですら、すごく興味を覚えました。「なんでスナックなの?」と。いろいろ理由を話してもらったのですが、「お客さんが思わず唸るような、みんなのツボに入る曲をカラオケで歌って喝采を浴びるのが楽しい」と言っていたのが印象的でした。スナックってそういう楽しみ方ができるんだなあと感心してしまいました。

 僕も学生のころからスナックに通っていれば、と素直に思ってしまいます。勉強に当てていた時間を少し削って趣味に打ち込んでいたら、もっと面白い人間になれたでしょうか。少しぐらい成績が下がったところで死ぬわけではありませんでした。だったら、何か興味のあることに時間とお金をつぎ込んでみてもよかったのではと、後悔が頭をよぎります。

 そういえば、言い訳するわけではないのですが、お金の問題もあると思います。入社2、3年目のころにキャバクラにはまり、キャッシュカードの借金が100万円以上になったとかいう武勇伝を話してくれた上司がいますが、今のご時世そんな若者がいるでしょうか。安泰な大企業に入り、将来のために貯蓄に励む。これが僕の周りではスタンダードな価値観です。時代が変わったのだと、環境のせいにしたくなります。

 文句を言っても始まりません。まだまだ社会人生活は始まったばかり。今から面白い趣味を作ることも可能です。手始めに、スナックでも行ってみようかしら・・・。

 

 

 とはいったものの僕はやっぱりゲームと読書が好きですね。この2つを否定する気はまったくありません。 

 

 

 

Hanako FOR MEN vol.16 スナックおいでよ。

Hanako FOR MEN vol.16 スナックおいでよ。

 

 

 

 

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Niantic社長がニコニコ超会議を絶賛していた話

 ニコニコ超会議2016に行ってきました。印象的なコンテンツが幾つかありましたが、Niantic社長のジョン・ハンケさんとシーマンを開発した斎藤由多加さんの対談が非常に面白かったです。

ポジティブなエネルギー

 NianticはGoogle mapを作ったチームがスピンアウトしてできた会社です。位置情報ゲームIngressを開発・運営しています。現実とデジタルの世界の狭間に立つゲームという娯楽がこれからどうなっていくのか、特に最近成長が目まぐるしいVR(仮想現実)およびAR(拡張現実)との関わりはどうなるのかというテーマが話し合われていました。

 ハンケさんがニコニコ超会議を非常に高く評価していたことが、僕の中で強く印象に残っています。普段ネットで繋がっている人たちをこうやって集めたら、ものすごく大きくてポジティブなエネルギーが生まれている。本当にすごいことだと言っていました。ドワンゴ会長の川上さんもその場にいたので、「アメリカでも超会議をやってくれ」なんていう冗談なんだか本気なんだか分からないような発言までしていました。

 いくらVRが現実に近い体験を提供できたとしても、当然実際に人が集まることによるエネルギーは生み出せません。どちらが優れているのかという話ではなくて、ネットの時代だからこそ人がリアルに集まるイベントも必要だよなあと考えながら聞いていました。

 また、ハンケさんはSONYPlayStation VRで遊んだと言っていました。体験してみた感想は、「あれは良すぎる(too good)」だったそうです。素晴らしい没入感を味わえた一方で、これで現実世界が豊かになるんだっけ、という疑問も口にしていました。確かに、VRのクオリティが高くなればなるほど、現実の世界に戻ってこれなくなってしまうなあと思いながら聞いていました。

ただ集まればいいのではなく

 ハンケさんも斎藤さんニコニコ超会議に来るのは今回が初めてだったそうです。そして実は僕も初めてでした。僕はニコニコ動画にどっぷり浸かっている人でもないので、かなり新鮮な体験でした。オタッキーな空間なんだろうなと思っていたのですが、それは偏見だったなと思い直しました。子供連れがけっこう目についたのも驚きでした。

 その一方で情熱を持ってイベントに参加したり、コスプレをしている人もたくさんいました。所狭しと詰め込まれたコンテンツはどれもぶっ飛んでいました。あんなものをごちゃごちゃと集めて、よくひとつのイベントとして機能しているなと感心してしまうほどでした。ハンケさんの言うポジティブなエネルギーは、僕もビシビシと体感していました。

 しかし、ただ人を集めればいいのかというと、そうではないと思います。会場の写真を撮影して「オタクたちが盛り上がっています」なんていう報道の仕方をしても全然だめでしょう。

 あのイベントがあれだけ盛り上がっているのは、ネットを母体にしているからなのではないかと思います。普段ネット上でコツコツ積み上げられてきた爆薬のようなものが、この2日間のために幕張に集められ、どかーんと爆発している感じでした。ハンケさんがどこまで理解しているかはわかりませんでしたが、ニコニコ動画あってのニコニコ超会議です。ネット上の文化を知らないと真に楽しむことはできません。

 ただ単に、ネットから飛び出したリアルイベントという切り取り方は短絡的だなと思うのです。普段ネットで共有しているコンテンツをひとつの空間で共有した時、どんなものが面白いのか。普段は画面越しにコミュニケーションしている相手が目の前にいるとき、人はどんな気持ちになるのか。そんなところまで深く考えられている気がしました。

また来年

 VRについてちょっと否定的な記述が多くなってしまいましたが、VRが嫌いなわけではありません。使い方によってはものすごく楽しくて有用な技術になるでしょう。体験はしていないですが、超会議でもVRを使った様々なブースが出ていました。

 一方で、あの暑苦しくて騒がしい幕張メッセで繰り広げられる興味深い対談を、僕は場を構成するひとつの要素になって聞いていました。ときどき後ろのブースの歓声が邪魔になったりしたのですが、それもまたあの空間だからこその体験なんだよなあと思いました。画面を走るコメントを見て、この対談を見ている人が他にもたくさんいることを感じながら、僕はあの空間を楽しんでいました。

 ニコニコ超会議が作っているネットとリアルの不思議な関係性を僕はまだまだ全然理解していないでしょう。それでも、すごく楽しかったし、また来年も参加したいなと思わされるイベントでした。何らかの形で関わったみなさん、お疲れ様でした。

 

 

 

 

 そのほか、ゲームについて考えたこと。

 

 

ニコニコ哲学-川上量生の胸のうち

ニコニコ哲学-川上量生の胸のうち

 

 

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