理系院卒のネットワークなブログ

意外なところに「つながり」ってありますよね

人類の健康を巡ってスマートウォッチの戦いが起きると思った話

 今年のGoogleIOで発表されたプロダクトやビジョンの中で、気になっているテーマの1つが「健康」です。Googleはこの分野に積極的に進出してくるのではないかと思います。健康への人々の関心の高まりは、いずれお金儲けの源泉になるはずです。

Googleが次に狙う情報は

 Googleはもともと、世界中に散らばっている情報を整理することで人類にメリットをもたらすことを目指して作られた会社です。有名なGoogle社の使命。

Google の使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることです。

 人類をいまよりも健康にするという究極の目標を達成するために、なるべくたくさんの人の生体情報を集めようとするはず。ここでいう生体情報とは、僕たちの体に関するあらゆる情報ということにしておきます。いろいろな定義があると思いますので。

 単純な例ですが、Googleが世界中の人の生体情報を集めることで、病気になる可能性が高い人と低い人を正確に分類できるようになってくると思います。その情報を保険会社は欲しがるでしょう。病気になる可能性の高低に応じて保険料を設定することができるようになるからです。病院と連携し、日々観測している生体情報をGoogleがチェックしていて、異常を検知すると病院にかかることを勧めるシステムだって作れそうです。

生体情報の種類

 生体情報には様々な種類があります。

 体重は体重計に乗るだけで計測することができます。そこに身長を組み合わせてBMIを算出すれば、肥満なのか痩せているのか判断する指標にすることができます。お腹まわりを加えればメタボかどうかもわかります。

 血圧や脈拍、呼吸の状態などは毎秒変化していきます。機械を使用することで簡単に計測することができ、体の状態の判断に役立てることができます。

 血液や尿を検査することでわかることも多いです。採取して検査するという2ステップが必要で、検査結果が出るまでに時間がかかることもありますが、まだ簡単に扱える部類かなと思います。

 MRI診断などは専用の機械が必要で、簡単に計測できる情報ではありません。しかし体を輪切りにすることで得られる情報量は莫大です。

スマートウォッチが一歩抜きでているのでは

 どういう方法で、どの生体情報を集めると人類の役に立つことができるでしょうか。2つの評価軸があると思います。1つは健康への影響度。人間の健康の状態をよく表す情報ほど重要度が高く、集める価値があります。もう1つは、どれだけ簡単に測定できるか。たくさんの人からたくさんの情報を集めないと価値ある分析ができません。

 タイトルにある通りなのですが、僕はいま一番価値の高い生体情報を集めることができる機械として、手首につける腕時計型のウェアラブルバイス(スマートウォッチ)が他をリードしているのではないかと考えています。近い将来、どの会社のデバイスが人々の手首に収まるのかに注目が集まる日がくるのではないかと予想しています。

 理由の1つ目は集めることができる情報が多い点。僕がいま使っているfitbitは、歩数、消費カロリー、階段の昇降数、脈拍、睡眠時間を計ることができます。手首は血管が皮膚の表面に浮き出ているため脈拍などを検出しやすく、手の動きから歩数など体全体を使った動きもある程度調査できているようです。

 もう1つの理由は多くの人が購入し、計測に参加してくれる可能性がある点です。もともと腕に時計をつけるという文化が根付いているため、腕に時間を知るための機械をつけることに抵抗がある人は少ないです。つけているだけで勝手に情報を吸い上げてくれるため、検査機関に行く必要もないし、時間をとられることもありません。

手首を巡る戦い

 しかし実際問題、スマートウォッチは流行っていません。最初のデバイスが世に登場してからもう10年近く経ちます。スマートフォンのように誰もが1台身に着ける未来がくるのかは誰にもわかりません。

 いまはスマートウォッチを腕につけるメリットがあまりありません。Apple Watchも試していた時期がありましたが、スマホの通知を確認できるのがちょっと便利というぐらいの感想しかありませんでした。

 生体情報を取ることに特化しているFitbitにしても、蓄積した情報を閲覧するのは楽しいのですが、そこからの発展がいまはありません。次はどのような一手をうつつもりなのでしょうか。

 しかし、今まで書いてきたように、腕時計型のウェアラブルバイスはいま最も価値ある生体情報をとれる機械です。画期的なアプリケーションが生まれた瞬間、各社が人の手首をめぐって激しい戦いを繰り広げることになると僕は予想しています。

 

 

 

 

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最近忙しいので健康が気になり出したんですよね。。。 

社内で一番忙しい部署に異動して1か月

 僕の会社は異動が多く、2,3年に一度部署が変わります。この春で入社3年目になったので初めての部署異動があり、社内で一番忙しい部署に配属されました。

仕事が忙しい部署

 今度の所属部署は、外から見ているとなぜあんなに忙しそうにしているのか理解しにくい部署でした。自分が帰社するときにいつも人がたくさん残っている部署。働き方の効率が悪いのではと僕も思っていました。

 その考えは甘かったです。帰るのが遅いのは、仕事がたくさんあるから。この部署はひとりあたりが抱える仕事の量が桁違いに多い部署でした。当然のことでした。

 仕事の進め方の特性上、昼は社外の人と商談続きになります。それでいて、自分が社内でこなさなければならない作業の量も多いため、夜に残って作業をするしかない。商談で疲れているので、どうしても作業のスピードが落ちてしまう。だけど、やらないと仕事が前に進まないため帰れない。

 同時にいろんな案件を処理していくため、抜け漏れも出やすく、そのリカバリーにさらに時間を奪われてしまうことも多々あります。また、二人一組で仕事を進めていくため、片方の予定に引っ張られることもしばしば。

 忙しい部署には忙しいなりの理由がありました。こういう風に進めるしかない仕事だし、付き合うことになる他社もそういう業界なので合わせるしかない。

 なんだか言い訳がましくなってきたのでこの辺で。少しでもいいから変革に貢献したいと思います。

生活面

 異動してから勤務時間が長くなりました。お昼に打ち合わせが入ることも多く、昼食を抜くことが増えました。睡眠時間だけは死守していますが、そのために夕食を諦める日が増えました。

 もともと食べることに執着心がありません。自分の中で大切ではないものの時間がまずは削られていくのだなと思いました。ですが食べることは健康に生活していくうえでの土台。ぐらついてしまうとすべてが崩壊してしまうので、できるだけ意識をして栄養を摂取しなければと思っています。

 平日に趣味に回す時間がほとんどなくなりました。食べられないことよりもこちらの方が自分的には悲しいです。

 自分はゲームが好きでゲーム会社に勤めています。ゲームをプレイするのは趣味であると同時に仕事のアイディアを得る時間でもあります。他社のタイトルから刺激をもらったり、自社のタイトルから仕事のタネを見つけたり。そういう時間が減るのは二重の意味で苦しいなと思います。

 ソシャゲもコンシューマーゲームも両方やるのですが、特にソシャゲに関してはランキングに入る気力がなくなってしまいました。

 日本でこれだけソシャゲが流行っていることに対して、「日本人は忙しいから隙間時間でプレイできるソシャゲが流行った」という説を良く耳にしますが、この説に対して少し懐疑的になりました。時間をリソースにして戦うソシャゲが、忙しい日本人に流行るのかなと。時間のある人に負けて悔しい想いをするぐらいなら、ネットワークに繋がらないゲームの方が純粋に楽しめるのでは。

 最近はなんとか暇を見つけては、Switchのカービィに癒されています。ゲームボーイアドバンスぶりにカービィをプレイしたのですが、3Dのカービィはめちゃめちゃ可愛い。

星のカービィ スターアライズ - Switch

星のカービィ スターアライズ - Switch

 

 

モチベーション・精神面

 忙しいという話をすると字面は暗くなってくるのですが、仕事自体は楽しくこなしています。まだ3年目なのですが、今の部署は自分の裁量が大きく、自分であれこれ決められるのがとても楽しいです。

 自分で決めることが多いからこそ、仕事の量が多い。たぶんここは表裏一体。責任もあるのですが、チャレンジした結果失敗したことは評価してもらえる環境です。

 こういうモチベーションに繋がる部分の待遇が悪かったら、精神的にきつかっただろうなと容易に想像がつきます。ノルマを厳しく求められたり、失敗したら他の人の前で叱られたりする職場ではすぐに心が折れていただろうなと。

 良い人が多い部署です。忙しい中でも楽しみながら仕事ができます。何年もこの部署で戦い続けている人がいて、そういう人たちはこの環境に慣れてしまっている部分もあるのですが、なんとかこの状況を変えようと努力しているのも伝わってきます。外から入ってきた人間として、環境を少しでも変えたいと思います。がんばります。

 

 

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 自分が社外の人との打ち合わせで疲れてしまうのは、自分が内向型人間だということもあるんですよね。そういう話を以前書きました。 

リメンバー・ミー感想:子供の頃に観たかった温かな死生観

最初はネタバレなしで書きます

 

 幼いころ、「人は死んだらどうなってしまうのだろう?」という悩みに取りつかれた時期がありました。曾祖母のお葬式に出たとき、火葬場で骨だけになってしまった姿が頭から離れず、自分もいつかあのように無の存在となってしまう恐怖に打ちのめされました。もちろん両親も死を体験したことがあるわけではないので、僕の不安を打ち消せるわけもなく、ただただ困らせてしまったことを覚えています。

 あのとき、この映画があったらどうなっていたのだろうと考えずにはいられませんでした。子ども心に、この作品で描かれている世界はフィクションであるとわかったことでしょう。でも、分かったうえで救われた気分になっていたのではないかと思うのです。あの世界を信じて生きてみようと、幼き僕は心にそっと誓ったのではないかと。

 そう思えるぐらい、リメンバー・ミーを貫く死生観は素敵なものでした。生者は死者を敬い、死者は生者を想う。シンプルだけど温かいルール。死者の国はとても楽しそうで、死者たちはポジティブに暮らしていました。

 そして現世で悪いことをした人間は、死者の国で報いを受ける。宗教の教えの中で天国や死後の世界が題材にあがる理由が初めて分かった気がしました。善く生きることで死後の世界の安寧を得られる。悪事を働いてはならない。なかなか実感の湧きにくい教えを、全く説教臭さを感じさせずにリメンバー・ミーは表現してみせました。

 ネタバレを解禁する前にもうひとつ、このご時世にメキシコにスポットライトを当てるディズニーの懐の深さにも賛辞を贈りたいです。アメリカにおけるヒスパニック人口の拡大と、メキシコとの国境線に建設される壁。時流を捉えて、的確なタイミングで彼らの文化に光を当てています。ディズニーにかかれば、子供向け映画ですら単なる娯楽という枠をやすやすと超えてしまうのだなと思いました。ブラックパンサーもただエキサイティングなだけではない、メッセージのある映画に仕上がっていましたね。

 

 

ここから多少のネタバレを含みます

 

 

 

 

面白くて理解しやすいストーリー

 ストーリー展開の巧みさも光る作品でした。物語として純粋に面白かったです。最初から最後まで無駄なシーンなんて1つもなく、結末までとても自然に繋がっていました。ヘクターの言っていることは実は最初からほとんどが真実で、もう1度見直してみたくなります。それでいて、複雑ではありません。誰でもすんなりと理解することができて、登場人物の心の動きまで素直に読み取ることができるでしょう。

 ズートピアを見たときにも同じような感想を抱きました。このシンプルさはなかなか簡単に作ることのできないものなのだと思います。

 リメンバー・ミーという楽曲に込められている想いが見方によって変わるのも面白かったです。英語の”remember”は日本語で言うところの「思い出す」と「覚えている」の両方の意味を表せる言葉。作曲された当初は、故郷を離れるヘクターが「自分のことを覚えていてね」というメッセージを込めた歌でしたが、ラストシーンでは「思い出して」という意味が持ちあがってくる。

 

温かい涙が止まらないハートフルさ

 クライマックスのハートフルさは素晴らしかったです。こんなに温かい気持ちで涙があふれてきたのはいつ以来だろうと。

 ミゲルがママ・ココに歌いかけるシーン。非常に温かい光に満ち溢れた部屋での1コマは、グラフィックだけをみれば泣ける要素なんてほとんどありません。少年がしわくちゃの老婆に向けて歌っているだけ。でも、涙が止まらない。

 ヘクターが死者の国からの出国ゲートで検査を受けているシーンも、一見するとコミカルなシーンなのに、彼の心の内を想うとまた泣けてしまう。ラストは場面が切り替わっでも涙が止まらない展開でした。

ミゲルの才能について

 ミゲルのミュージシャンとしての技量について意図的にぼかされているような印象を受けたのも気になっているところです。

 血筋による才能であることを強調することはできたでしょう。でもそれをしてしまうと、世の中持って生まれた才能のある人間が強いという価値観に繋がる。逆に血のにじむような努力をしたということを強調すると、今度はスポ根映画のようになってしまう。表現のバランスに苦心したのではないかと勘ぐっている部分です。

 

 

 

 ミュージカル映画として語りたくなる人もいることでしょう。グラフィックの美しさについて一言述べたくなる人もいると思います。ガイコツたちのコミカルな動きも良かったですね。多面的で重層的な作品になっていて、どの面を見ても一級品に仕上がっている、アベレージの高い映画だなと思いました。

 

 

キャラは弱いのかもしれない。しかし。

 その一方で、キャラクターの弱さという点が気になりました。プリンセスは出てきませんし、かわいい動物やクリーチャーが活躍する話でもありません。普通の人間の男の子と、ガイコツたちのお話。商品化などの二次展開のイメージがあまり湧きません。

 しかし、ディズニーの内部でどのような議論があったのかは知る由もありませんが、彼らはこの作品にGOサインを出したのです。このキャラクターじゃないと成り立たない。グッズ展開等が難しくても、作品として世に問う価値がある出来に仕上がっていると判断したのでしょう。現にこの映画は世界中の多くの人を魅了しているわけです。すばらしいと思います。

 ゲーム会社で働いている人間として、この姿勢には畏敬の念を抱かざるを得ません。魅力的なキャラクターは映画やゲームを構成するとても重要な要素。ウケるキャラを作ることに力点をおいた結果、よくわからない世界観になっている作品をたくさん見てきました。改めて、世界で最も偉大なエンターテインメントのプロフェッショナル集団であることを見せつけられた気分です。

 

 

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その他映画の感想

  

 

リメンバー・ミー オリジナル・サウンドトラック

リメンバー・ミー オリジナル・サウンドトラック

 

 

仕事で上手く怒れる人間になりたい

 最近職場で怒っている人を立て続けに見ました。怒りというのは仕事を進める上で大事な感情だと思いましたし、上手く怒れる人間になりたいものだなと思いました。

 

1人目

 他部署の数人の怠慢により自分の作業に迷惑がかかっている。それに関して怒り、Slackの公開チャンネルに強い口調で注意を書きこんでいる

 

二人目

 自分のやりたい仕事を進めていたのだが、チェックする部署からストップをかけられた。それに関して怒り、その部署の担当者に強い言葉で詰め寄っている。

 

三人目

 とある仕事を依頼されたのだが、その仕事を受ける適任の人が他にいると感じている。その人をないがしろにするような依頼の仕方に関して怒り、担当者になぜそのような進め方をしているのか冷静に詰め寄っている。

 

四人目

 部下が取引先の不手際を馬鹿にするような発言を社内でしていた。実際は不手際があったのはその部下の方なのに、それを棚に上げている。部下の今後のためにもそのような発言は慎むように強い言葉で説教している。

 

仕事における感情の取り扱い

 企業というのは利益を追求するための組織です。お金を稼ぐことが唯一の目標です。僕は社会人になってもうすぐ丸二年が経つのですが、企業で働いている人の感情もものすごく大事な要素だなと思うようになりました。

 自分が、「こういうものがあったら良いな」と思えるものを提供する仕事に関わっているとやる気が湧いてきますし、もっとこうしたら良いのではないかというアイディアが湧いてきます。逆に自分がやりたくない仕事をするときはパフォーマンスが落ちてミスが多くなります。自分の仕事を上司から褒められたり、ユーザから良いフィードバックがあったりすると嬉しくなり、ますますやる気が出ます。逆もまたしかり。面白い、楽しい、嬉しい、つまらない、不愉快、悲しい、などなど働いている人の感情によって仕事の結果は大きく変わってくるのだなと思うようになりました。

 僕はゲーム会社で働いているのですが、ロジックを立てようがデータを分析しようが大ヒットするゲームを作るための決め手を掴むことはできないと思っています。答えのない世界です。だから僕の会社では作っている人たちが面白いと思うかどうかが重要視されます。特大のホームランとなる作品はロジックを超えた先にあると社員がみんな感じています。この雰囲気が僕は大好きです。

 大学院で研究をしているときとは大違いです。大局的な見方をすれば、どのような研究をしてどのように社会に役に立ちたいかという面で、研究者自身の志のようなものはとても大切になると思います。ただ、短期的な目線では、論文を書くのに感情という要素はほとんど影響を与えません。データを収集し、分析し、そこからロジックを立てる。感情が入る余地などほとんどありませんでした。だから感情の取り扱いというのは、会社に入って二年たった今も慣れない分野の1つです。

感情は大事。だけど怒ることは難しい

 冒頭の怒りの話に戻ります。感情は仕事を進めるうえで大事です。怒りの感情も尊重されるべきだと思います。ただ僕は怒鳴り散らしている人を見るのがものすごく苦手です。全く自分に関係がなくとも、目の前に怒っている人がいると胃がズーンと重くなってしまいます。

 冒頭の一人目と二人目を見たときは不愉快でした。一方で三人目と四人目を見たときは全く不快な気持ちになりませんでした。

 その違いは、僕の好き嫌いも多少は影響しているのだと思いますが、怒りの感情の表出の仕方にあるのかなと思いました。怒りの感情の持つ強さを理解したうえで、冷静にそれを行使しようとしているなと思ったのです。

 自分は怒っているのだと伝えるのは、怒鳴ったり強い言葉をぶちまけたりする必要はないと思います。それは言葉で伝えることができます。三人目と四人目の怒りも、相手にはちゃんと通じているように見えました。

 そして怒りの感情が伝わると、重大に受け止めてもらえます。悪用するのは良くないですが、きちんと伝えなければならないときには絶大な威力を発揮するものだなと思いました。

上手な怒りの使い方を習得したい

 怒りの感情についてこのような文章を書こうと思った理由の一つに、僕自身は怒りの感情を行使するのがとても苦手だなと思っているからです。

 そもそも僕は怒ることが人より少ないのではないかと疑っています。他の人の心の中に入り込んだことがないので確たる証拠など何もないのですが、冒頭で書いた三人目と僕は実は全く同じ立場にありました。三人目の人は怒っているのに、僕自身は特に何にも感じていなかったのです。怒るべき場面で怒りの感情が湧いてこないというのは実は良くないことなのではと思いました。僕は周りに対する興味が薄いのかもしれません。他の人が何をしようと、自分に関係がないなら知らんぷりをする。そんな傾向が強いのかもしれないなと思いました。

 第二に、僕は怒りの感情を表に出すのが苦手です。本当に腹が立つことがあると、ぶすっと不機嫌になってふさぎ込んでしまう。怒りの感情が上手く周りに伝わらないし、いざ伝えようとしてもネチネチとした攻撃になってしまう。

 怒りの感情を使わずに仕事を進めることはできると思いますし、僕はそちらの方を目指していこうと思っているのですが、時には必要だとも思います。そんなときに、冷静にこの強力な感情を使っていきたいものだなと思いました。

 

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仕事系の雑記 

 

怒っていい! ? 〈誰にも嫌われない〉〈相手を傷つけない〉怒り方

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グレイテスト・ショーマン感想/ミュージカルを見るためだけの映画

最初はネタバレなしです。

 

 

 映画「グレイテスト・ショーマン」を見に行ってきました。2018年2月26日時点で、日本での興行成績は2週連続のナンバーワン。僕の周りの人の中にも、面白かったという人が数人いたのでどんなものかと気になったので。19世紀に活躍した興行師P.T.バーナムの成功を描くミュージカル映画です。

 

 僕の目にどのように映ったかを端的に表現するならば、「ミュージカルシーンをひたすらにカッコよく見せるため、それ以外の部分を割り切っている映画」となります。

 サーカスが舞台なのでミュージカルシーンはとにかく演出が派手でした。ただ踊るだけではなく、いろいろな舞台装置をからめた演出は見ていて「すごい…」以外の感想が出てきませんでした。楽曲の種類がすごく多いおかげで見ていて飽きず、それでいて1つ1つの曲が素晴らしかったです。お腹いっぱいになれる映画でした。

 一方で、ミュージカル以外の部分はお世辞にも素晴らしいとは言えなかったです。特に僕のような斜に構えた見方をする人間にとっては。しかし、そんなことは些細なことだとねじ伏せるだけの腕力のある映画でした。その結果として素晴らしい興行成績がついてきているのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

以降はネタバレありです。

 

 

 

 

 

とにかくシンプルなストーリー

 開始15分ぐらいで物語の大枠が見えてきます。その段階で僕の頭の中には、とってもベタな起承転結が思い浮かびました。どのように期待を裏切ってくれるのか楽しみに見ていたのですが、結局その起承転結の通りになってしまいました。そのぐらい、言ってしまえば面白味のないストーリーでした。

 この映画、誰も予想外の動きをしません。キャラ通りの動きをして終わり。実話に基づいているとはいえ、実在のP.T.バーナムがやったことに少し脚色を加えているわけですから、もう少し裏表のある人物を登場させてもよかったはずなのに。物語をドラマティックに見せようとする意思があまり感じられないのです。

 敵は敵で、味方は味方。新聞記者のベネットや妻チャリティの両親は最初から最後まで立ち位置に変化がない。ニューヨークの地元の人々も石を投げ続けるだけ。物語は敵役の動きによって奥行きが出るものだと僕は思っているのですが、敵役が薄っぺらいので厚みがありません。

 メインキャラクターの心の機微が見えにくい映画でもありました。「あなたと一緒になりたいけどそれは無理なの」と歌っていたアンの想いはいつどのように変わったのでしょうか。成り上がりだと仲間外れにされて嫌になってしまったバレエに対する長女キャロラインの想いはなぜ変化したのでしょうか。同じような幼少期を過ごしたことでリンドとバーナムには通じ合うものがあったはずなのに、そこは結局掘られぬままケンカ別れで終わってしまいました。

 伏線にできそうなアイテムはそこかしこに転がっているのに、わざと見えていないふりをしているかの如く無視されていきます。逆に徹底的。物語を物語らしく見せる気がそもそもないのかなと思いました。

メッセージの中途半端さ

 物語の序盤で、身体的に特徴のある人たちを集めてバーナムはサーカスを興します。ひとりひとりの個性を輝かせようじゃないかというメッセージが宣言されます。いまの時代に合った素敵なテーマです。しかしそれをずっと貫いていく映画ではありませんでした。

 中盤は家族の愛、家族の大切さというテーマが示されます。自分は成功や報酬を追い求めすぎたと後悔したバーナムは、家族の元へとひた走ります。そこに、前述の「個性」の話はありません。ひたすら、家族はやっぱり大事だよねというポイントに終始します。

 最後のシーンはバーナムの残した名言で締めくくられます。これがまた「個性」とも「家族」とも関係のないメッセージ。「THE NOBLEST ART IS THAT OF MAKING OTHERS HAPPY.」。芸術とは、エンターテインメントとはどういうものかを表した言葉でした。もちろん映画の中では表現されていたテーマではあるのですが、強く主張されるテーマではなかったはずです。最後を締めるのはそっちの方向で良かったんだっけ?という疑問が残りました。

取りつく島もない映画

 上でごちゃごちゃと文句をつけましたが、とにかくミュージカルを目に焼き付けよという映画だったのだなというふうに消化しています。ミュージカルに関係ない部分はノイズであり、ひたすらに削ぎ落としていくストイックさを感じました。そしてその戦略は見事に当たっているのだと思います。

 この映画の2時間は歌とダンスのための2時間。日常の嫌なことは忘れて、圧倒されて帰ってほしいという心意気を感じました。事実見ている間はとても楽しかったですし、もっといろんな曲を見ていたかったなと思いました。ただただぼうーっと眺めるために、2回目を見に行ってもいいかもと思ったぐらいです。

 ラ・ラ・ランドはストーリーを分析して語る余地がありました。ネットでもいろんな人がそれぞれの持論をぶつけていたものです。一方グレイテストショーマンは、語りたい人種の人間が語りたくなるようなことを意図的に排除した、取り付く島もない映画と評することはできないでしょうか。語る余地がないのでネットが荒れず、変に悪い評判が流れることがありません。一方ポリコレ問題にはかなり配慮がなされている映画でした。それも、無駄なツッコミをさせないためのバリアなのかもしれません。見たい人が気持ちよく見て帰ってこられる映画。そう考えると素晴らしい映画を作ったものです。ハリウッドはやはり懐が深いなと思いました。

 「これで数字をとれちゃうんだからちょろいもんだよなあ」なんてぼやいてみたくもなります。

 

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その他の映画の感想。

 

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

 

 

 

すべての引っ込み思案に「内向型人間」という考え方があることを知ってほしい

 最近読んで救われた気分になった本があります。僕と同じ属性の人たち、すなわち理系人間、ゲーム好き、オタク気質の方には響く人がきっと多いと思って紹介します。

内向型を強みにする

内向型を強みにする

 

 研究よりも仕事で異常に疲弊してしまう自分

 本のタイトルを見ればあるどのような本なのか程度察しがつくと思います。控えめで引っ込み思案な自分があまり好きになれない人、自ら前に出て行って自分の主張を展開することや、大勢の輪の中の中心人物になるのが苦手な人に読んでほしいです。僕もそういう人間の1人ですが読んでよかったなと思いました。

 また、他人と一緒にいるのは嫌いではないけど、仲の良い友人でさえ長時間一緒にいると疲れてしまう。1人の時間が好きで、1人の時間がないと生きていけない。僕は自分のそういうところを、人間として何らかの欠落なのではないかとさえ思ったことありました。でも、そうではないのかもしれないと思えるようになりました。

 冒頭で「救われた気分になった」と大げさなことを書いたのは理由があります。社会人になって丸二年が経過しようとしていますが、自分は仕事をすると疲れ果ててしまうことを少し不思議に思っていました。大学院生のときに朝から晩まで研究をしているときとは疲れの度合いが全然違うのです。実働時間をみたら研究の方が断然長かったのにもかかわらずです。

 社会人1年目のときはただ単に慣れていないだけなのだと思っていましたが、2年目になっても特に大きな変化はありませんでした。大好きなゲームに仕事として関われるようになったのに、自分はこの仕事に向いていないのではないかとさえ思うようになりました。そんなときにこの本を読んで、仕事で疲弊してしまうのは自分のひとつの特徴であって、人間として劣っているわけではないし、転職したところでどうにかなるものではないな、と思うようになりました。

 この世の中には内向型の人間と外向型の人間がいるというのが本書の主張です。人間の心理に関することなので1から100まですべてが正しいとは思いませんし、すべてを妄信しようとは思わないのですが、この考え方を知れてだいぶ心が軽くなりました。序盤だけでも読んでみてください。僕と同じように救われる方がきっといると思います。

内向型人間と外向型人間

 すべての人間は内向型と外向型に分類することができ、それは0か1の離散的な分類ではなく、連続体上のどこかにプロットされていて、どちらに寄っているかの程度の差であると本書は主張します。僕なりに解釈して作った図ですがおそらく下図のようなことを言いたいのだと理解しています。Aさんはちょっとだけ内向型で、Bさんはかなり外向型だといった具合です。

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 内向型/外向型の一番大きな違いは、エネルギーの蓄え方/消費の仕方にあると書かれています。内向型であればあるほど、自分の内側にエネルギーを求める傾向にあり、外の刺激に接するとエネルギーを消費してしまう。逆に外向型の人は自分の外側にエネルギーを求め、自分の内側の世界にいるとエネルギーを消費してしまう。

 以下は本書における内向型の人のエネルギーの傾向を説明した一文。

内向型の人のもっとも顕著な特徴は、そのエネルギー源である。内向型の人は、アイディア、感情、印象といった自身のなかの世界からエネルギーを得ている。彼らはエネルギーの保有者だ。外の世界からの刺激に弱く、すぐに「もう手一杯」という気持ちになる。これはイライラ、あるいは、麻痺に似た感覚なのかもしれない。

 逆に外向型の人を説明した一文。

では、外向型の人のもっとも目立った特徴はなんだろう?それは、外の世界、つまり、さまざまな活動や人や場所や物からエネルギーを得ている点だ。彼らはエネルギーの消費者なのである。長時間、のらくらしたり、自己反省したり、ひとりで、もしくは、ひとりの人を相手に過ごしたりすると、彼らは刺激不足におちいる。

 エネルギーの「保有者」「消費者」と書きわけると内向型の方がすごい人間に見えるのですが、おそらく日本語のニュアンスの問題です。内向型/外向型のどちらが優れているというわけではないと書かれています。ただ単に違うだけなのだと。このエネルギーの理論がすごく腹に落ちるので好きになりました。

なぜ自分は仕事で疲弊してしまっているのか

 本書の分類によれば、私は典型的な内向型の人間です。15問ほどのチェックリストが掲載されています。(今までの人生から、チェックするまでもなく自分のタイプを知っている人が多いのではないかと思いましたが)

 大学院生として研究をしているときと、ゲーム会社に就職して仕事をしているときと、明らかに疲れの度合いが違っているのはなぜかという問題に立ち返ってみます。内向型/外向型の理論に照らしてみると注目すべきポイントは明白です。研究はひとりで行い、自分の頭の中で理論をこねくり回していた(=自分の内側の世界で活動していた)のに対して、仕事はたくさんの人とコミュニケーションを取り合いながら進めていく(=外側の世界から刺激を受けながら活動する)ものということです。頭を使うという点ではどちらも同じなのですが、僕の気質からいってエネルギーの消費の度合いが段違いであると考えることができます。

 「この仕事に向いていないのではないか」という問いに対する答えとしては、サラリーマンとして働く以上、どんな会社に転職しようとエネルギーを消費して疲れてしまうことには変わりがないだろうと予測をつけることができます。大学教授でさえ、様々な人とコミュニケーションを取りながら仕事をしているのを研究室で見てきましたから、たとえ大学に残って研究の道を志していたとしてもこの問題にはぶち当たっていたことでしょう。

 エネルギーの充電方法に目を向けたときもこのエネルギーの理論は僕に当てはまっているなと感じています。まさにいまこのようにブログを書いているという行為は、自分の内側に目を向け、自分の精神世界を掘り進んでいることですから、僕にとってはエネルギーが充電されることになります。最近は銭湯に行ってサウナでぼーっとするのも好きですが、それも同じ。逆に人が大勢集まるイベントに行くと、せっかくの休日なのにかなり疲れた気分になっていたのは、外からの刺激を受け取ってエネルギーが消費されてしまっていたからなのでしょう。

違いが生まれる理由

 本書では内向型/外向型の違いを脳科学から説明しようと紙面が割かれています。ここでは内向型/外向型という考え方があることを知ってほしいと思って文章を書いているので、あまり深く立ち入ることはしません。

 着目しているポイントは主に3つ。

・内向型の人は外向型の人よりも脳を流れる血流が多い

・支配的な神経伝達物質に違いがあり、それが流れる経路の長さに差がある。内向型の人の方が経路が長く、ゆっくりとした反応をしがちである。

神経伝達物質の差により、内向型の人は副交感神経優位であり、外向型の人は交感神経優位である

 この3点の違いによって、様々な気質の差が生まれているとのこと。脳科学には明るくないので特にコメントをつけようとは思いませんが、理論と実験結果に基づいているということはわかりました。

内向型の人間としてこれから意識してみようと思ったこと

1人の時間を意識的に確保すること

 昔からなんとなく1人の時間が好きだなと思っていました。本書の理論によれば、僕は1人の時間にエネルギーを蓄えていたことになります。好きとか嫌いとかの次元ではなく、自分は1人の時間を確保しないとエネルギーが切れてしまう気質なのだと考えてみることにしました。

 大勢の人とコミュニケーションをとりながら朝から晩まで過ごすと、終盤にぷっつりと糸が切れたように何も考えられなくなる経験を昔から何度か経験しました。仕事で初対面の人との打ち合わせが続いた日もそうです。本書の理論で言えば、エネルギーが切れてしまった状態と言えるのでしょう。そういうことが起きる気質なのだと意識していきたいなと思います。

今の社会は外向型の人が有利になるようにできているということ

 この本では、全人類の75%は外向型だと書かれています。内向型の人間は4人に1人しかいないマイノリティ。社会はマジョリティが有利になるような仕組みを持ちますから、自分は少し不利な立場にあることを自覚する必要がありそうです。

 何かにつけてコミュニケーション能力やリーダーシップが重要視される世の中です。研究者やエンジニアでさえ、コミュニケーション能力を問われます。組織で働くのならチームの一員として結果を出す必要があります。1人で黙々と作業することしかできない人間は、AIにとって代わられるかもしれません。そういう時代であることをきちんと認識していきたいと思います。

 また、外向型の人は内向型の人の行動や考え方を理解できないかもしれません。両者は正反対の気質を持っています。周囲の人間に変なヤツだと思われないためにも、自分の気質を理解して、いざというときに説明できるようにしておくことも大事なのかなと思っています。

自分を理解し、肯定すること

 自分の引っ込み思案なところや、人と関わり続けると疲れてしまうところは、人間的に劣っている面だと思っていました。しかしそういう気質なのだと捉えると諦めがつきます。努力をすれば解決できるものではない、と。だから無理に自分の嫌なことをする必要もないのだと考えることにしました。自分と仲良く付き合っていくためにも、これからも自分自身のことを観察して、自分がどういう特性を持っているのか理解に励みたいと思いました。

 逆に自分が好きなことや得意なことを、自信を持って好きだと言えるようにしたいなとも思いました。自分の内面を探りながらこうやって文章をひねり出す作業は、実は外向型の人にとってはあまり好きになれない行為なのかもしれません。でも僕は好きです。だから続けていきたいなと改めて思いました。

 ただ、「自分は内向型だから・・・」と変に言い訳の材料にしたくないとも思っています。人とコミュニケーションをとることが嫌いなわけではないのです。上手に自分と付き合っていきたいなと思います。

 

 

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その他、研究とか理系とかについて書いてます。

ハイカライブ@闘会議2018現地レポ - イカアイドルが壊す電子の壁

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http://www.4gamer.net/games/368/G036835/20180210054/より

 

 ニコニコ闘会議2018で行われたスプラトゥーンの音楽イベント「ハイカライブ」に現地参戦してきました。最高に熱いステージで大盛り上がりすると同時に、任天堂の仕掛ける戦略のすごさに圧倒された1日となりました。

 二次元のキャラクターがパフォーマンスする音楽イベントって果たして盛り上がるのだろうかと現地へ行く前は懐疑的だったのですが、価値観をズドンとひっくり返されました。新しい音楽イベントの片鱗を見た気分です。現実と仮想の境界はどんどん曖昧になっていくのだなと感じました。

ざっと流れを簡単に(セットリストも)

 最初はスプラトゥーン2のお馴染のゲーム画面からスタート。テンタクルズの二人、ヒメとイイダがいつも通りのテンションでアナウンスをしてくれます。「今日のステージはここ!(幕張メッセが写される)。」「大きなハコだなー!」みたいな。この時点で面白い。

 そしてステージに貼られた透明スクリーンに二人が出てきます。もう、登場しただけですごい。この二人、ぬるっぬるに動く!滅茶苦茶可愛いし、カッコいい。そして近いぞ!

 ヒメとイイダは4曲。

1. ウルトラ・カラーパルス

 フェス時のハイカラスクエア広場のBGM。始まりにふさわしい。「ヘイッ!ヘイッ!ヘイヘイ!」で1発目から大盛り上がり。ここから3曲はフェス時のナワバリバトルのBGM。

2. リップル・リフレイン

 ヒメちゃんの王冠ぴょんぴょんダンスとソロラップが超クール。

3. レッド・ホット・エゴイスト

 イイダさんの肩掛けキーボードがロック!

4. フルスロットル・テンタクル

 2人が煽るもんだからフルスロットルで腕をぶん回し。楽しかった!

 お次はシオカラーズの2人、アオリとホタルの登場。スプラ2のヒーローモード(1人プレイモード)が全部伏線となって、ここで回収されるわけです。客席からあがる「おかえり~!」の声に感動。

5. あさってcolor

 スプラ2のヒーローモードのエンディング曲。しっとりバラードでちょっとクールダウン。演出がずるい。涙する人多数。

6. 濃口シオカラ節

 1でも2でもヒーローモードのラスボス戦のBGM。二人の代表曲。体がぴょんぴょん飛び跳ねる!

 そして最後は4人そろって

7. イマ・ヌラネバー!

 「ラーラーララーラーラー」の大コーラスで締めとなりました。

彼女たちはゲームのメインコンテンツではない

 スプラトゥーンをプレイしていない人は驚かれるかもしれませんが、今回パフォーマンスを披露した4人はゲームの主人公ではありません。メインのシューティングバトルにも登場しない、いわばゲームの説明役。身も蓋もない言い方をすればサイドコンテンツの1つでしかない彼女たちが、ゲームの枠を飛び出し、あんなに大勢の観客を熱狂させていたのです。もうびっくり。

 スプラトゥーン1を開発している段階では、こうやって音楽イベントを行うことはイメージできていなかったかもしれません。一方スプラトゥーン2で登場したヒメとイイダは明確にこのステージを意識して作られたキャラだと思いました。イイダがDJだという設定しかり、ふたりとも激しい動きに映える格好をしていることしかり。ヒメの王冠がぴょんぴょんするのがとっても可愛かったです。

 ここまでの壮大なビジョンを持ってゲームを開発できるというのが本当にすごいところだなと思いました。メインコンテンツではない彼女たちの存在で、ゲームの中も外も盛り上げることができている。こんなことができているゲームが他にいくつあるでしょうか。

彼女たちはイカ語しか話さない

 ヒメとイイダ、アオリとホタルのパフォーマンスで大盛り上がりのステージになりました。しかし、この4人は日本語をしゃべりません。英語でもない、イカ語。エフェクトがかかっているので電子音のように聞こえる謎の言語。公式のイカ語の歌詞はありますが何を言っているのか誰にもわかりません。

 ステージが始まった直後、それはデメリットになるのではないかという考えが僕の頭をよぎりました。どんなメッセージを発しているのかわからないのに、本当に盛り上がることができるのだろうか、と。せめて字幕を載せたほうがいいのではないか、と。でもそれは杞憂でした。

 ヒメとイイダの1曲目。2人の繰り出すラップとダンスに僕の目は釘づけ。周りの熱狂につられて腕を振り上げていました。英語のラップを聞くように、意味がとれなくてもカッコいいものはカッコいい。字幕なんてついていたら気がそがれていたことでしょう。

 イカ語を貫くことでスプラトゥーンが1の時代から築き上げてきた世界観はきちんと守られました。あの世界に日本語はない。任天堂はしっかり守るべきところを守るブランドマネジメントが本当に得意なんだなと思います。

 そして、海外の人も同じようにあのステージを楽しむことができていました。英語のコメントもよく入っていたように思います。イカ語は世界共通語。変に日本語を使ってしまうとのけ者にされている感じがすると思うんです。

 ゲーム開発に携わっている僕からすると、ゲームを開発する上でもあの方式は都合が良いんだよなと感心しきりでした。音声は全言語共通にできて、ゲーム内テキストだけローカライズするという方法。フルボイスよりもよっぽど楽です。最近はスマホゲームですら有名声優のフルボイスをつける時代ですが、世界の任天堂はそういう流行りに乗らず、彼らならではの答えを見せつけてくれました。

 セットリストの最後の楽曲では、コーラスパートがありました。曲に入る前に一緒に歌ってねとアオリから説明してもらいました。いままでイカ語で歌っているのを聞いていただけだったのが、ここでようやく僕らも歌うことができる。しかも、アオリとホタルだけでなくヒメとイイダも一緒に。本当に胸が熱い展開でした。やっと一緒に歌える。電子の壁を超えて、ステージと観客が一体となった瞬間でした。

ゲーム音楽であるということ

 なぜイカ語で歌われる楽曲で盛り上がることができるのかということをもう少し考えると、あの楽曲たちがゲームのBGMとして使われている曲だからという見方もできると思います。特に2, 3, 4, 7曲目ですね。

 スプラトゥーンのバトルは1回3分。その短いスパンでステージのBGMを繰り返し繰り返し聞くことになります。バトル中は相手を撃ったりステージを塗ったりすることに夢中なのですが、音楽は無意識の領域に刷り込まれているのだなと思いました。演奏される楽曲はどれも聞き覚えがあって盛り上がりのタイミングもわかるし、自然と体が動くのです。楽曲自体のカッコよさを再発見する場にもなりました。

 もちろん、全くそのままのBGMを流していたわけではありません。演奏はバンドの生演奏だったので、バンドサウンドに映えるようにアレンジがしてありました。観客の僕らも大盛り上がりのアゲアゲなアレンジで、合いの手が入れやすいような工夫もされていて最高でした。

 最後の7番目の楽曲はスプラトゥーン1と2の両方に採用されている楽曲。片方しかプレイしていない人もみんなわかるし、みんなコーラスに参加できる。ゲーム音楽ってすばらしいなと思いました。

ゲームならではの奥行とバランス感覚

 このライブ自体ゲームを下敷きにしたものですし、シオカラーズの2人が”戻ってくる”というのはスプラ2のヒーローモードから地続きになった展開です。選ばれた楽曲もゲームでの展開に繋がっていますし、2人がすれ違いになってしまうことを表現した演出もその一環。

 でも、その演出は押しつけがましくないのです。知らない人、気付かない人はさらっと流せる程度の軽やかさ。ゲームの中から飛び出してきたということで、バックグラウンドは豊かです。コアファンが喜ぶものを作ることは意外と簡単です。でも、ドロドロに濃いものを作りあげるのが正解では決してない。そのバランス感覚をきちんと理解されて作られたステージだなと思いました。

 ゲーム音楽のフェスなのです。ゲームを少しプレイしたことがあって、BGMを知っていれば盛り上がることができる。それでよいではありませんか。その配慮も素晴らしかったなと思います。

枯れた技術の細部に神は宿る

 使われている技術自体は新しいものではありませんでした。初音ミクがパイオニアとなって切り拓いてきた道です。踏み固められた道を堂々と歩いていくいつもの任天堂のやり方だなと思いました。

 新しくないとはいえ、あのクオリティを担保するのは簡単ではないでしょう。音楽と映像が0.1秒でもずれたら観客はだいぶ違和感を覚えるはずです。しかも演奏は生のバンドによるもの。映像は調節できません。完璧に合わせるしかない世界。すばらしいコンビネーションでした。

 キャラクターたちの動きも素晴らしかったです。ステージ上を自由自在に動き回り、手を振り回し、複雑なステップを踏む。イイダは途中で肩掛けのキーボードを演奏していましたが、おそらく指の動きまで妥協せずに作り込まれていたのではないかと思います。

 ダンスの振り付けもとっても良かった。アオリとホタルはヒメとイイダよりも腕が長い分、腕を繊細に動かす振付が意識的につけられているように見えました。逆にヒメは小さい体をめいっぱい動かすパワフルなダンス。キャラにも合っていて素晴らしかったです。

 帰ってから動画を見返してみると、さらなる発見があって2倍楽しめました。二人がステージ上でちらっと目くばせしたり、最初アオリがやたらオドオドしていたり、細かい演出がたくさん。会場にいると前の人のペンライト等で細かい部分まで見えなかったのです。神は細部に宿っていたのですね。

二次元の歌姫の未来

 再三言及していますが最後の楽曲でコーラスを要求したり、途中で「盛り上がってる~?」と呼びかけをしてきたり、アーティストさながらジャンプや手拍子を要求してきたりと、観客とのコミュニケーションにも積極的に挑戦していたのも印象的でした。

 彼女らは映像。観客の反応は見えません。将来的にはリアルタイムでAIが判断しながらパフォーマンスを行うなんてことも実現しそうではありますが、いまはそんなことはできず、観客を置いてけぼりにして冷めてしまうリスクさえある行為です。でも、チャレンジを怠りませんでした。

 ステージと観客との掛け合いはライブの醍醐味。ファンである僕らもステージを作り上げている一員だという意識で、積極的に参加していく必要があるのかなと思いました。それはアーティストのライブのときのなんら変わりません。みんなでライブを作っている。たとえそれが二次元キャラであってもです。

 今回は前列にいらっしゃった方が振付に合わせてサイリウムの振り方を変える流れがすぐにみんなに広まって、非常に一体感のある客席になりました。初めてライブで演奏された曲ばかりなのに、この順応性はすごいなと思いながら。今後ハイカライブがあったときにもきっと団結して最高のライブを作り上げることができるなと確信しています。

 そんなことを考えると、現実と仮想の境界はどんどん曖昧になっていくのだなと思います。安室奈美恵さんのライブと、テンタクルズのライブ。はたから見みると天と地ほど差があったとしても、観客の体験に一体どれだけの差があるでしょう。「2次元のアイドルにブヒブヒ言っている気持ち悪いオタク」という像はこれからも少しずつ崩れていき、いずれ市民権を得ていくのではないかと思いました。天下の任天堂が踏み込んでくれば流れが変わります。僕らの心の中にある電子の壁はいずれ壊れる。未来が顔をのぞかせているステージでした。

 

 

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【2/14追記】

公式動画がYoutubeにUPされましたね!


スプラトゥーン2 ハイカライブ 闘会議2018

 

 

その他、ゲームについて。

 

 

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