理系院卒のネットワークなブログ

意外なところに「つながり」ってありますよね

岩田聡社長を悼み、功績を調べ直す - スマブラはゲームのターミナル駅でした

 突然のことだったのであまり思考がまとまっていませんが、どうしても書いておかなきゃいけない気がするので書きます。任天堂の岩田社長のことです。

 僕のような20代前半のゲーム好きが、ゲームに入る導線を作ってくれたのが岩田社長だと思っています。でも、そのことを知らない若者もいるのではないでしょうか。岩田さんが任天堂の社長に就いたのが2002年。僕は10歳。ちょうどゲームにはまり始めた時期なのですが、その時期にこのゲームを作ったのは誰なのか、なんて気にしていませんでしたから。だから、今の若い人たち、岩田社長の経歴・功績を調べなおしてみると良いと思います。僕もさっき調べていて気づきました。こんなにも、この人のお世話になっていたのですね。こんなにも、惜しい人を亡くしてしまったのですね。

ポケモンスマブラから広がった世界

 僕が一番最初に買ってもらったゲームはポケットモンスター赤です。岩田さんはHAL研究所出身の方なのでポケモンとは関係なさそうなのですが、プログラマーとして開発に参加されていたそうです[1]。ポケモンシリーズに岩田さんが直接関わったのが、赤・緑の海外移植やポケモンスタジアムのための戦闘プログラムの解析など。この時期、ポケモンの開発元であるゲームフリークは次回作の金・銀の開発に追われていたので、プログラマーが足りていない状態だったらしいのです。そこに助け舟を出したのが、HAL研の社長の岩田さんだったそうです。

 僕の周りにはポケモンからゲームに入るという、同じような境遇の子どもが多かったです。小学生のころ、授業が終わったら誰かの家に集まってゲームをしていました。ソフトはニンテンドー64大乱闘スマッシュブラザーズHAL研が産みだした最強のキラーソフトです。もちろん当時の社長は岩田さん。スマブラは僕にとってゲームのターミナル駅のような存在でした。ファミコンを知らなかった僕にとって、初めてマリオに触れたゲームであり、初めてゼルダの伝説に触れたゲームであり、初めて星のカービィに触れたゲームがスマブラだったからです。スマブラがあったから、僕の中で世界が広がっていきました。記憶では、スマブラの次に買ったソフトが星のカービィシリーズだったのですが、これもHAL研が開発したものでしたね。

任天堂の就職説明会にて

 任天堂以外のゲームもやったり、一切ゲームをやらなくなった時期もあったりしました。しかし、大学生のときにふとポケモンがやりたくなってゲーマーの道に帰ってきました。その流れで今年の任天堂の就職説明会に参加させて頂きました。岩田社長は、映像のみの出演でした。なぜ本人が説明会に出られないのか、理由はさらっと聞き流してしまったのですが、もう病が篤かったのですね。でも、映像に移る社長はニコニコしていて、体調が悪いようには見えませんでした。

 社長は30分ぐらいお話して下さったと思います。任天堂の創業から始まって、ビデオゲーム産業のこと、これから任天堂はどうなっていくか、具体的に何をやっていくか等を語ってくれました。任天堂DeNAとの提携を発表した直後で、僕は任天堂の今後を心配していたのですが、岩田社長の話を聞いて「なんか大丈夫そうだな」と思った覚えがあります。環境の変化に対応しうるだけの準備はしてあると仰っていましたし、なにより「娯楽の再定義」をするんだと、ニコニコ語る岩田社長の顔を見ていたら安心できたのではないかと思っています。

 会社説明会は、京都まで自費で行きました。必ずしも採用選考に影響するものではなかったので行かなくてもよかったのですが、こんな形で「行っておいてよかった」と思うことになるとは予想していませんでした。スクリーン越しに伝わってきたあの人のパワーを、直に受けることができたらどれだけ幸せだったかと思うとやはり悲しいです。

 不謹慎かもしれませんが、時代の移り変わりを感じてしまいますね。これからは、岩田さん達の世代が作ったゲームで育ち、デジタルデバイスの発展と共に生きてきた世代がゲームを作っていくことになるのでしょう。新しい世代の新しい感性が、新しい娯楽を作っていくのだと思います。僕もその一端に関わることになるかもしれないので、気合を入れて頑張っていきたいと思う次第であります。最後になりましたが、岩田聡さんのご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

参考資料

[1]社長が訊く『ポケットモンスター ハートゴールド・ソウルシルバー』

 

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