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理系院卒のネットワークなブログ

意外なところに「つながり」ってありますよね

ARの覇権争いで日本のコンテンツよ輝け

 次に来るのはARかVRか。ゲーム業界に身を置く一人として、この論争はいつも興味深く眺めています。FacebookがARに参入することを表明したことで、ARの覇権争いが先に本格化することが予想されます。その中で、日本がどのようにかかわっていくべきか考えてみました。

ARという舞台に役者が揃ってきた

 2017年4月18日、Facebookによる開発者向けカンファレンスF8にて、マークザッカーバーグ氏本人がプレゼンを行い、ARのプラットフォーマーを目指す戦略が高らかに宣言されました。プレゼンには20分ほどの時間がかけられ、Facebookの本気が伝わってくる内容でした。

 FacebookとARという話題は、競合SNSであるスナップチャットの存在を無視して語ることはできません(参考:Forbes JAPANTechCrunch Japan)。スナップチャットは自社をカメラの企業だと位置づけており、ARカメラは彼らのアイデンティティの根幹を成すものです。Facebookはその領域でスナップチャットに優位を取ることで、新興勢力を叩き潰そうという構えなのでしょう。

 ARのハードウェア面の動きも見られます。GoogleのAR技術であるTangoを搭載したZenfone ARが発売されたり(Engadget 日本版)、AppleがARデバイスを開発中とのうわさが流れたり(ITpro)と、ARという舞台に役者が揃ってきました。

 ARが次の時代のメインストリームになるかどうかは別にして、大きなお金がこの分野で動くことは確実になったと言ってよいでしょう。しかし悲しいことに、この舞台に躍り出るこのできる日本企業はありません。国内ではLINEが頑張るかもしれませんが、グローバルな技術開発の覇権争いには踏み込めないでしょう。(だからこそSONYのVRには頑張ってほしいですね)

 もったいないことだと思います。なぜなら、日本にはARと相性の良いコンテンツ(IP)がたくさんあるからです。

先行するARのエンターテインメント応用

 ARの普及段階を考えると、最初に「ARのエンターテインメント応用」が進み、「ARの実用的な応用」が遅れてやってくることになると思います。

 服をARで自分に重ねて疑似試着をしたり(VR Inside)、家具をAR上で部屋に置いてみてイメージしやすくしたり(日流ウェブ)といったものは実現していますが、まだまだ違和感が残るのであくまで参考程度に利用するクオリティ。ARで手術を補佐したり(日刊工業新聞 電子版)、工場のオペレーションを補佐したり(TechFactory)といった分野はまだまだ研究段階。こちらはゴーグル型デバイスが必要で、かつ正確性・安全性が問われる分野なので実現はまだ先になりそうです。

 一方、ARのエンターテインメント応用はすでに実用化と大衆への浸透が進んでいます。言うまでもなくポケモンGOを筆頭とするゲーム、SNOWを筆頭とするカメラはほとんどの人がどういうものかを理解してくれる段階にまで普及しました。

 エンターテインメント応用でカギを握るのはずばりコンテンツとアイディアだと思います。それはポケモンGOのヒットを見れば明らかですし、スナップチャットはポケモンGOがヒットする以前に、ハローキティとコラボして話題を集めていました(Daily Mail Online)。空間にデジタルオブジェクトを置くことや、カメラで顔を認識してフィルタをかけることに大きな技術的な差は生まれにくいからです。あっと驚くコラボレーション。覇権争いで競合をリードするためにはそれが必要だと思います。有名なコンテンツとコラボすればネットでバズる話題性ととっつきやすさを獲得できます。(ポケモンGOGoogle MapとIngressで蓄積した膨大なデータをもとにゲームを作っているのでおいそれと真似できるものではなかったりしますが)

 というわけで、日本のコンテンツホルダーにとっては、ARプラットフォームの覇権争いというのは1つの勝負どころなのではないでしょうか。

世界に挑戦できるプラットフォーム

 日本生まれのコンテンツがグローバルにお金をかけて勝負を挑むプラットフォームと言うと、ゲームと映画が思い浮かびます。

 ゲームについては、日本でだけ流行っているタイトルもありますが、世界中でヒットを飛ばしてきたシリーズも多々あって、良い勝負ができていると思います。一方、ハリウッド映画化された日本のコンテンツは、ドラゴンボールの印象が強すぎるのかもしれませんが、ことごとく爆死している気がします。アメコミヒーローやディズニーキャラクターの映画が世界でしっかりとした興行成績を挙げているのとは対照的です。

 アメコミと比べると、日本のコンテンツは現実離れした世界を描くことが多く、実写がメインのハリウッド映画の世界とは相性が悪いのかもしれません。この先ワンピースやNARUTOが実写映画化されたとして、全世界で大ヒットするイメージはあまり持てません。(とは言いつつ、ディズニーの実写映画も上手くいっているので、プラットフォーマーとの地理的距離や日本的コンテキストなど問題は別にあるのかもしれませんが)

 ではゲーム・映画と並べてみて、ARというプラットフォームはどうでしょうか。AR技術を使い、現実世界に対して現実世界に近いものをオーバーレイさせても面白味が出ません。せっかくARを使って遊ぶのならば、現実離れしたものを重ねることで現実が拡張され面白さが出るのではないでしょうか。

 例えばF8のプレゼンで、コーヒーカップをカメラでとらえるとそこが防衛軍の基地となり、襲い来る敵から自分の体を使って守るというゲームが紹介されました。ここで敵の姿に注目してみると、それはリアルな戦闘機ではなくちょっと面白味のあるロボットになっていて、現実離れしているのです。この辺に僕は日本発のコンテンツの勝機を感じます。

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Facebook F8 2017 - YouTubeより

日本のコンテンツよ存在感を示せ

 最近、中国の技術発展がすさまじく、日本はすでに技術的な優位性を失っているとの論調が多く聞こえます。人口およびかけているお金に差がありすぎるので、やむなしでしょう。ですが、中国発で世界に通用しているコンテンツというのは聞いたことがありません(三国志が好きなのはたぶん日本人だけ)。ARという大きなお金が流れこんでくる分野で、相性の良いコンテンツを多数有する日本は、必ずや存在感を示せると思うのです。

 AR自体がこけるかもしれません。それでも良いと思います。コンテンツに傷はつきません。むしろ、Facebookという巨大企業が自社の命運をかけて放つ次の矢の先端に、日本のコンテンツが載っている。これが実現すればデカイと思います。日本のクリエイターは賃金的な面で過小評価されていると言われていますが、外国資本の流入によって一気に流れが変わるかも、というのは夢物語すぎるでしょうか。

 ポケモンGOGoogleとの協業だという事実はすでに知れ渡っています。もうすでに声がかかっているコンテンツがあったりするのかもしれません。目が離せないですね。

 

 

その他ゲームについて考えたこと 

 

 

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ラ・ラ・ランドと一億総批評家時代

 ラ・ラ・ランドはどうも感想が書きたくなる映画のようです。たくさんの人がいろいろなことを語っているのを見て、僕も書きたくなってむずむずしてきたので感想を書くことにします。この「感想が書きたくなる」というのが実はこの映画のすごいところなのではないかと思うようになり、それについても後半で触れることにします。

 

 

 

 

ネタバレを含みますので、気にする人はここでバックしてください

 

 

 

 

どストレートな序盤中盤

 女優を目指すミア(エマ・ストーン)と古き良きジャズのお店を開きたいと思っているセブ(ライアン・ゴスリング)のラブストーリーである本作。ミュージカルが途中で挟まる形式になっており、2人が夢に向かって奮闘する様子や熱いラブロマンスを、歌とダンスで盛り上げます。

 とにかくストレートな映画だなと思い、安心して見ていました。わかりやすい夢があり、そこに至るまでの努力と葛藤があり、そして恋愛に第三者はいません。大きな波乱もなく、予想できる範囲のラストシーンまで一直線に進んでいくのだろうと、ある種の退屈をも感じながらスクリーンを眺めていました。

 ただ、ミュージカル初心者の僕は、歌とダンスの持つパワーに圧倒され、夢に向かって頑張る2人の姿勢にポジティブなメッセージを感じ、くるくる変わるエマ・ストーンの豊かな表情を見ているだけで幸せな気分になりました。わかりやすすぎるお話しではあるけど、とにかく今日はこの映画に元気をもらって帰ろう。途中で集中力が途切れた時間帯もありましたが、そんなふうに好意的な目線で鑑賞していました。

少し考えさせられるラストシーン

 ラストシーンもありきたりだなと最初は思いました。夢を叶えるために別々の道を選択した2人は、一切連絡も取らぬまま交わらぬ人生を歩んでいる。セブの夢であったジャズのお店を偶然訪れることになったミアと、ステージ上のセブの視線が交差する。そして、昔と変わらぬセブのピアノにのせて「もしも二人が別れていなかったら」というifの世界がミュージカルで描かれるのです。

 このミュージカルは途中からどうも様子が変で、二人が分かれるきっかけとなったミアのパリ渡航にセブも同行しているようで、いったいどの選択肢をやり直したifの世界なのか分からず混乱しました。僕の予想の斜め上をいく、考えさせられるラストシーンでした。

トータルで見ると味わい深い

 帰り道で考えた結果、あのifの世界はセブが抱き続けた気持ち悪い妄想の世界だったのかなという結論が僕の中で出ました。

 「女の恋は上書き保存、男の恋は名前をつけて保存」とよく言われるように、男は終わった恋愛に対していつまでも未練を残し、ありえもしない何かを期待しがちな生き物。ラストシーンでセブは、想い続けたミアと偶然再会してしまったものだから、勢い余ってその妄想の世界をピアノの旋律にのせて表現してしまった。

 セブはもともと何かに固執する変なヤツだったことを知っているミアはそれに気づき、1曲聞いただけでお店を後にする。そのとき2人が目を合わせるシーンで、ミアの視線にはある種の哀れみが含まれていたのではないかと僕は思います。

 「男性諸君、いつまでも終わった恋を引きずるのは気持ち悪いぞ」というメッセージ。ラストシーンの手前までポジティブ100%で進行してきたこの映画は、ミュージカルを隠れ蓑にしながら、最後の最後で世の中の多くの男性の心を抉る。鑑賞中は退屈だなと感じる時間帯もあったのですが、トータルで見ると味わい深い映画だなと思いました。

何か大きな見落としがあった?

 ここまでが映画を見た直後の僕の感想でした。家に帰ってネットを見てみると、この映画について多種多様な批判が寄せられていて、自分が何か大事な要素を見落としていたのではないかと焦りました。

 ネットにあふれているいろいろな人のラ・ラ・ランド批評。僕とは違う解釈をしている人はたくさんいましたが、僕が明らかに見落としている要素はなかったのではないかと思いほっとしました。むしろ、僕が見落としていたのは「この映画の脚本に、見落としがあるほどの深さはない」という視点の存在。第89回アカデミー賞最多部門ノミネート・最多部門受賞の超話題作が、そんなふうにぶった切られていていいのかと逆にびっくりでした。名作と呼ばれる映画には深い洞察に耐えられるだけの奥行と耐久力があるものだと思っていたからです。

 指摘されていた脚本の薄さというのは、「ミアとセブが恋に落ちる過程が描ききれていない」とか、「ミアがオーディションに受かって大女優になれたのは素質があったからなのか偶然だったからなのかわからない」とか、「2人は別れたあと連絡を取り合ったりしなかったのかという単純な問いに答えられない詰めの甘さ」などなど、様々な点から言及されていました。僕がショックを受けたラストシーンを、「よくわからない」と切り捨てている人さえいました。

 思い返せば見ている最中に違和感を覚えた場面もあったのですが、「あえてやっている」という人工的なにおいを僕は感じて、むしろ受け取る側の自分に問題があるのかもしれないと思って保留していました。

1億総批評家時代

 結局、監督が意図的にツッコミどころを用意した作品なのか、彼に隙のない脚本を作る能力がなかったのかは僕にはわかりません。ここで僕が1つだけ確かに言えるのは、この映画は批評したくなる出来栄えに仕上がっているよね、ということです。

 完全に脚本が破たんしているわけではないけど、突っ込んでみるとあらが目立つ。許されるギリギリのライン。見る人によって様々な受け取り方がなされ、声の大きな人たちが大声で批判することによって燃え広がり、より多くの人の関心を引いていく様はまるでネットの炎上芸だなと思いました。

 SNSの浸透によって、ネットというオープンな空間にたくさんの人が自分の想いを公開するのが当たり前という時代になりました。圧倒的な深みのある作品を、一部のコアなファンがくみ取る時代は終わり、誰もが気軽にツッコミをいれることのできるスキのあるコンテンツこそが主役となる時代の到来を感じます。一億総批評家時代とでも言うべきこのご時世、常人が理解できないぶっ飛んだ感性よりも、適度に炎上する優れたバランス感覚が求められるのかもしれません。映画の中身だけでなく、世間への受け取られ方も含めて、非常に楽しめた映画でした。

 

 

その他、映画の感想

 

 

 

Ost: La La Land

Ost: La La Land

 

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1-2-Switchは確かに新しいゲーム体験だ。しかし。

 Nintendo Switchの同発タイトル、1-2-Switchを同僚と遊ぶ機会がありました。Nintendo Switchというゲーム機がどのような新しい体験を提供してくれるのか、その試金石となるゲームという位置づけで注目していました。

 このゲームは積極的に広報されていたため、発売前から多くの情報が明らかになっていましたが、ゲームは体験してみないと何もわかっていないのと同じです。自分が体験して思ったことを残しておくことには意味があると思うので、書いておきます。

新しいゲーム体験

 いくつかの側面から1-2-Switchが提供してくれる新しいゲーム体験を書いていこうと思います。

① 画面ではなく相手を見る

 これは一番強く宣伝されていた要素でした。そして、まさしくその通り、今までのゲームにはない体験でした。画面をほとんど見ずにゲームが進行していきます。画面がおまけというわけではなくて、相手を見ないとゲームにならない、という感じでしょうか。

 1-2 Switchでは、対戦相手その人を強く意識するゲームでした。そのことが意外なほど新鮮に映りました。スマッシュブラザーズでは田中君が操作するキャプテンファルコンと戦っている感じがするのですが、1-2 Switchでは田中君その人と戦っているのです。これが当たり前のようでけっこう感覚が変わりました。ゲームがより原始的な体験に進化(退化?)したと言えるでしょう。

② 画面とボタンを使わず、振動を使う

 相手を見ながらゲームをするということは、画面を使わないということの裏返しです。それに加えて1-2-Switchでは、ボタンをほぼ使いません。コントローラーを振ったり、コントローラーを持った手を大きく動かしたりすることがゲームに対する入力になります。

 コントローラーを使っているとき、向かいあった相手からはどのボタンを押したのかあまり見えません。せっかく画面ではなく相手を見てプレイするゲームなのだから、隠し事をせずにいろいろな情報をお互いが見える形でテーブルに載せていくのがこのゲームの基本でした。

 基本的に勝ち負けのつくゲームは情報を公開せずに自分だけのものとした方が有利です。だから、ボタンを押すという操作が入るとお互いは情報を出さないように殻にこもりがちになります。それを全くさせないゲーム設計になっていて、あくまでも1対1のコミュニケーションをしていこうよ、という設計者の意図を感じました。

 ただ、このゲームで唯一非公開情報になっているのが振動です。自分が握っているコントローラーがどのように振動しているのかは、相手にはわかりません。Nintendo Switch売りの1つであるHD振動を、ゲームのカギにしているというのがニクイ発想だなと思いました。

 例えば、「ライアーダイス/Liar Dice」というミニゲームが収録されています。平たく言えばインディアンポーカーのサイコロバージョンです。お互いがサイコロを2つ振り、出た目の合計の大小を競うのですが、お互いのサイコロの様子はどちらからも見えないようになっています。相手のサイコロの出た目の合計が振動でわかるようになっていて、それをもとに、勝負すべきか、自分のサイコロを振り直すかを決めていくゲームです。

 ここで相手の情報が振動を介して伝わってくるというのがニクイ演出で、相手が振動を感じている時間が長いほど出た目が大きいわけですから、相手が長く振動を感じ取っているように見えた場合は自分に強い目が来ている可能性が高くなるのです。振動という非公開情報は、使い方によっては公開情報にもなり得る、非常に面白いツールなんだよというメッセージを感じるゲームです。(それにプラスしてぞろ目になったときにブーストがかかるという仕様が駆け引きに奥深さを出します)

 コントローラが振動するというのはそれこそNITENDO 64のころからあった機能ですが、大半はゲーム内の演出を盛り上げる賑やかしの要素でした。Nintendo Switchは20年ぶりにこの機能をゲームの主たる構成要素に昇華したといってもいいと思います。

③ 2人用ゲームなのに2人では盛り上がらない

 6人ほどでワイワイと1-2-Switchをプレイしたのですが、これが2人だけだったらあまり盛り上がらなかったのではないかと思いました。プレイできない人が重要な役割を果たすのです。今までのゲームでこんなことはなくて、あぶれてしまった人は退屈な思いをするだけでした。

 「ゴリラ/Gorrila」というミニゲームがあります。指示された通りのリズムでゴリラのドラミングの動きをするリズムゲームです。リズムゲームで対戦するならば、プレイヤーが安定して操作ができて、なおかつゲーム側の読み取りミスも少ないという理由でボタン入力がベストなはずです。しかしこのゲームではあえて腕をウホウホ動かすことでリズムをとらせるのです。

 何が楽しいのかと言うと、いつもクールなアイツとかオフィスのマドンナとかが必死にウホウホポーズをし合っているのが面白いのです。つまり、明らかにこのゲームは第3者の視線を意識して作られています。ヤジを飛ばしているだけで楽しくて、プレイしている側も、恥ずかしいけどやっぱり周りが盛り上がってくれているのは楽しいと感じる。これは新しいなと思いました。そのほかにも「モデルウォーク/Runway」や「エアギター/Air Guitar」なんかも同じようにプレイしていない第3者も巻き込んだ内容になっていました。

どういうシーンで遊ばれるのだろう

 さて、1-2 Switchが新しい体験を提供してくれたという話をしてきました。新しくて、面白いゲーム体験だと思います。では、このゲームは売れるでしょうか。そうとは限らないですよね。一番気になったのは、誰に、どういうシーンで遊んで欲しかったのだろうということです。

 1-2-Switchと同じような立ち位置のゲームとしてWii Sportsを挙げることができると思います。Wiiのローンチタイトルで、コントローラーを振って体を動かすことでゲームができるという新しいゲーム体験を作りました。

 Wii Sportsの場合、「家族みんなでプレイしてね」というメッセージが宣伝物などに強烈に出ていたと思います。子ども、両親そして祖父母がテレビの前で一緒に体を動かしているCMを今でも思い出すことができます。

 1-2-Switchはどうでしょうか。任天堂はそういう強烈なイメージづくりをしていないように思います。僕の印象に残っている宣伝物は、パーティ会場にNintendo Switchを持って行ってテーブルに本体を置き、その前で男女が向かい合っているイメージ。持ち運ぶことができる据え置き機というNintendo Switchの特徴を紹介しつつ、1-2-Switchの遊び方を提示している広告だと思います。ですが、パーティなんて普段なかなか行かないじゃないですか。そういう特別な場で遊ぶことを想定して作られたゲームというのはあまりピンときません。

 「誰でもどこででもできるゲームなのだ。だから、特定の使用例はないのだ」ということなのかもしれません。だから特定の強烈なイメージを作る必要はなかった、と。その場合はみんなの定番となるゲームを目指しているのかもしれませんが、僕が遊んだ印象ではどのミニゲームも要素が極端に絞られていて、一度プレイしたもういいかなと思ってしまうほどあっさりとした作りになっています。何度も何度もやりたいという気持ちになるかと言われると、そんなことはないかなという感じでした。

ただのメッセージでいいの?

 任天堂が1-2 Switchに与えた使命を僕が予想するならば、Nintendo Switchではこんなゲーム体験ができるんだよということを手軽に知らしめることかなと思います。「こんな単純なルールのミニゲームでも、けっこうおもしろいでしょ?」「本気でゲームを作ったら、もっともっと面白いゲームができると思わない?」とこのハードウェアの可能性を提示することが1-2-Switchの役目なんだ、ということかなと。

 だから、ゲーム制作者に向けたメッセージが一番強く込められているのかもしれません。こんな使い方ができるハードウェアだから、何かゲームを作ってくれないだろうか、という問いかけなのかもしれないなと思いました。だとしたら、これはいろいろな人が指摘していた陳腐な意見ですが、1-2-SwitchはすべてのNintendo Switchにあらかじめインストールすべきだったと思います。1個か2個のミニゲームでも十分だったでしょう。ひとりでも多くのひとに届いた方が得策ですから。

 せっかく任天堂が1つの新しいゲーム体験を込めたゲームを作り上げたのに、ただのメッセージだと割り切ってしまう自分に対して少しさびしさを感じてしまうのもまた一人の自分だったりします。さて、1-2-SwitchNintendo Switch普及の起爆剤となるのか、それとも。

 

 

その他ゲームについて考えたこと 

 

 

 

 

1-2-Switch

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ゲームにおけるサプライズ要素と、開発vs宣伝の戦い

 ゲームにはサプライズが必要だと最近思うようになりました。なぜサプライズが必要か、そしてサプライズをお客さんに届けるにあたっての課題について書いてみたいと思います。

エンターテインメントにはサプライズが必要だ

 僕は仕事でゲームの開発に関わっています。開発の会議で社内の取締役の意見を伺う機会がたびたびありまして、その方の持論が「エンターテインメントにはサプライズが必要だ」というものです。いろいろ考えた結果、ゲームの開発者として、そして一人のゲーマーとしてこの考えに同意するようになりました。

 「驚き」というのはエンターテインメントの根幹を成すものだと思います。自分の予期していなかったことが起きたとき、人は「ドキドキ」「わくわく」と興奮し、楽しいという感覚が生まれてくるのだと思います。次にどんな敵が待ち構えているかわからないRPGしかり、いつ怖いシーンが出てくるかわからないホラー映画しかり、知らされていなかったゲストが登場するライブイベントしかり。

 ゲームをプレイする過程にはユーザの知らないこと=サプライズがたくさん用意されているべきだと思います。ゲーム内で起こることをすべて知っていたら、ただ指を動かすだけの作業になってしまいます。そこに楽しさを見出せるでしょうか。(格ゲーや音ゲーなど当てはまらないジャンルもあると思いますが、そういうゲームでも何かしらのサプライズ要素があると楽しいですよね。シークレットキャラとか隠しステージとか。)

 アプリゲームで開催されるイベントを例にとってみると、自分で体験する前にイベント内容のすべてを知っている場合、用意されたイベントを楽しみつつも、その事前情報が正しいかどうか確認するという作業感や、運営にやらされている感を僕は心のどこかで感じてしまいます。告知に含まれないサプライズ要素が毎回のイベントに仕込まれるアプリゲームがあったとしたら、今回はどんな驚きが隠されているのだろうと積極的にゲームを遊びたくなる気がします。

サプライズの前借りはやめてほしい

 ゲームにはサプライズがないよりはあったほうがよい、ということには多くの方が同意してくれるのではないでしょうか。一方でその逆の働き、つまりサプライズをさらけ出してしまう役割もまた、ゲーム会社には存在します。それは宣伝・広告を担う人たちです。

 宣伝担当は一人でも多くのひとが自社のゲームを面白そうだと思ってもらえるように広告を展開していきます。多くの場合、広告には売り込もうとしているゲームの中身の情報を盛り込むことになるでしょう。アプリゲームのイベントも同様で、イベントが始まる前からそのイベントの情報を出して、ユーザの盛り上がりを作ろうとします。それだけでなく、休眠ユーザの呼び戻し、新規ユーザの獲得も同時に狙っていくことになるでしょう。

 広告を打つということもまたエンターテインメントの要素を含んでおり、そこにサプライズがあればあるほどユーザの反応は大きくなります。昔から趣向を凝らした面白い広告をたくさん目にしますが、広告に盛り込むサプライズ要素の中で一番手っ取り早く利用することができるものは、ゲーム開発者がゲームをプレイしてくれる人を驚かせようと仕込んだサプライズ要素です。今回のゲームではこんなにびっくりな演出があるんだよ、というタイプの広告です。このようなゲーム内のサプライズ要素を切り出して利用する広告は、購入者が体験するサプライズをいわば前借りする形で消費してしまっていると僕は捉えていて、あまり好きではありません。

 ドラクエのメインストーリーやモンスターハンターの新モンスターのような部分を告知に使うことには異論はありません。本筋の部分なので人を引き付けるために使っていけば良いと思います。でも、たとえば、ポケットモンスターサンムーンでシロナが登場するよ、なんて情報は告知に必要だったでしょうか。ゲーム開発者が長年のファンを喜ばせるために入れたサプライズ要素のはずだったのに、事前告知に使われてしまって可愛そうだなと思いました。

 ゲームの発売前やゲーム内イベントの開始前に大きなバズを生み出し、ゲームに良い影響を与えたいという考えはわからないでもありません。でも、僕はひとりのゲーム開発者として、実際にゲームをプレイしてくれている人をいかに驚かせ、楽しんでもらうかが最重要課題だと考えて日々働いています。そのためには意図的に情報を隠すことが必要なケースもあるのではないでしょうか。ここが開発側と宣伝側でどうしても重点がずれてしまうところなのかなと考えています。

宣伝効果の計測

 では、一切宣伝をしなくていいのかというとそういうわけにはいきません。宣伝担当には自社からこんなゲームが出ているということを多くの人に知らしめるという大切な使命があって、彼らなしにはゲームは作れないなと思っています。

 宣伝に使う媒体は、TVCMやゲーム雑誌だけだった時代から、自社のHP、ネットメディア、ソーシャルアカウントへと広がってきました。宣伝効果を計る手段がゲームの売れ行きを見るしかなかったころと違って、Webの世界ではPVやインプレッションを数値として簡単に計測することができ、宣伝効果を単体で測定することができます。

 求められるのは数字と、より大きなバズ。ある施策でそれが達成されなかった場合、次なる施策のためにさらにゲームのサプライズ要素を消費していく、なんていう悪いループにはまっていったとしても、ある意味しょうがないのではないかと思ってしまう自分もいます。いろいろな分野でPV至上主義の功罪が語られていますが、ゲーム開発にも間違いなく影響を及ぼしていると思います。

開発者、宣伝担当、そしてユーザができること

 ゲーム開発者と宣伝担当はお互いの立場を理解して協力しあっていかねばなりません。社内でいがみあっていてもマイナスにしかなりません。

 ゲームの内容をユーザが事前に知っていたとしても夢中になれるようなゲーム設計と、ある程度消費しても弾切れしないほどのサプライズを仕込めるよう、ゲーム開発者は努力していくべきだと思います。宣伝担当も、ゲームの内容にあまり触れずに話題を作れるような企画、企画自体が驚きのある広告を提案していくべきだと僕は思います。

 そして今まで一切触れてきませんでしたが、受け取る側であるユーザも考えるべきことがあると思います。ゲーム会社が発表する情報を一切受け取らなければ、プレイするゲームは驚きに満ちたものになるでしょう。他人と競争することをあえて放棄し、自分の力だけでマイペースにゲームと向き合っていくこともできるのです。ネタバレを極端に嫌うのなら、情報を意図的に遮断することも一案だと思うのです。ゲーム会社がそれをユーザに強いるのは何かが間違っている気はしますが。

 知りたい人だけが情報にアクセスすればよい、「嫌なら見るな」という考え方は正論ではあるものの、今の時代実行することは難しいのもまた事実です。SNSで多くの他人とネット空間を共有している現代人にとって、公式がバズらせようと企んで発表する情報を回避することは非常に難しいことです。自分が購入を考えているゲームの情報を発信するアカウントを片っ端からブロックしていくことは現実的ではありません。できる範囲でルールを決めて、たとえば自分からは公式のHPにアクセスしないなど、ストレスをためずにゲームを楽しんでいけたらいいなと一人のゲーマーとして思います。

おわりに

 ゲーム会社の人間であると同時に一人のゲーマーとして、この問題には一生付き合っていく必要があると思います。また他のエンターテインメントにも同じ議論が通用すると思います。シンゴジラの細かいシーンにも徹底的なこだわりが隠されていたということを知って、あれもある種の制作者からのサプライズだなと思った覚えがあります。他のエンターテインメントはこの問題にどのように対処しているのか、興味を持って観察してければと思います。

 

その他ゲームについて考えたこと

 

 

 

 

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【映画評】期待と希望を繋ぐ ローグ・ワン/スターウォーズストーリー

 ローグ・ワンスターウォーズストーリーを見てきました。大好きなスターウォーズシリーズですので、感想を書いておこうと思います。

 総評をネタバレなしで書いてみると、スターウォーズシリーズ全体のストーリーに破たんを起こすことなく、時系列的に次に控えるエピソード4への期待・希望をにじませつつ、一本の映画としてきちんとまとめあげるという綱渡りをやってのけた作品だと僕は思います。

 

 

 

 

 

 

 ネタバレをしながら詳しく感想を書きますので、気にする方はバックしてください。

 

 

 

 

 

 

 本作で気になった要素は4つあります。「なぜエピソード3とエピソード4の間だったか」「ジェダイのいないスターウォーズ」「反乱軍の葛藤」「そして誰もいなくなった」。この4点について考えたことをいろいろと書いていきます。

なぜエピソード3とエピソード4の間だったか

 まずは本作の立ち位置について。この映画は、物語中の時系列で言うとエピソード3とエピソード4の間のストーリーを描いています。エピソード4が起きる直前と言っても良いですね。

 スターウォーズシリーズは各作品の間に当たる時間に何が起きたのかも膨大な資料によって詳細に設定されています。エピソード3とエピソード4の間ではなくとも、ローグワンのような派生作品を作ることは可能なはずです。

 数ある選択肢の中からここを選んだのはやはりエピソード4がシリーズ最初の作品であるということに関係があるのではないかと思います。1977年の公開から時間が経過し、エピソード4を知らない人たちが増えてきました。あの作品こそスターウォーズシリーズの原点であって、今後公開されていくエピソード8や9の下敷きにもなっていることは間違いなく、何かきっかけを作ることでエピソード4を、もっと言えばエピソード4,5,6を見てほしかったというのが、ローグワン公開の狙いの1つにあるのではないかと思いました。

 メインシリーズから派生した作品というのはどうしてもファン向けになりがちです。しかし、良い派生作品を作れば、スターウォーズとディズニーの圧倒的知名度も相まって、多くの新規層をスターウォーズシリーズの沼に引きずり込むことができるのではないか。そう考えたスタッフがいても不思議ではないかなと思いました。

 ただ、最も古い作品に直結する最新作を作るというのは非常に難しいことです。俳優さんを再登場させることができませんし、撮影技術やCGのレベルも違います。最新作のエピソード7に繋がる話の方が断然作りやすかったでしょう。でも、あえてここを狙ってくる。そこがカッコいいなと思いました。

 エピソード4と同じキャラはCGで出演していました。本物の俳優さんと並んでもほとんど違和感がなく、技術の進歩に驚かされました。この技術に確信を持てたからこそ、この企画が動き出したのかもしれませんね。

ジェダイのいないスターウォーズ

 ローグワンの「Rogue」というのはならず者という意味です。ジェダイのような正統派ヒーローではなく、少し曲がった部分もある人物たちが活躍する物語。派生作品にはよくある設定ですが、これが吉と出るか凶と出るかは賭けだったのではないでしょうか。

 スターウォーズスターウォーズたらしめる要素の1つがジェダイの存在です。フォースの力を駆使したジェダイの戦闘シーンはスターウォーズシリーズの大きな見どころであると同時に、力に溺れてしまうと暗黒面に落ちてしまうという危うさもストーリーを引き立てる要素です。

 しかし、この作品にはジェダイの騎士がひとりも出てきません。時系列を遡って、エピソード1とエピソード2の間などにしておけば違和感なく新キャラのジェダイを登場させられたのだと思いますが、ローグワンはそもそもジェダイがほとんど残っていない時代のお話になっています。

 ジェダイがいないことによって、映画としてのわかりやすい見栄えの良さが失われることは否定できません。正義側のジェダイの騎士と、悪役側のシスの騎士がライトセーバーでチャンバラをするのがこのシリーズのアイデンティティと言っても過言ではないはずです。そのシーンをどうあがいても作ることができません。

 映画の見栄えとは別に、観客の物語の理解度にも影響してくるでしょう。今作の登場人物はきっと、「こんなときにジェダイがいれば…」と心の中で何度も思ったはずなのです。長年のスターウォーズファンはその気持ちを自然に感じ取って共感することができます。ジェダイのいない絶望感。しかし、それを新規層に伝えるすべは、この作品の中にはないように思えました。

 1つフックになるとすれば盲目の戦士チアルートの存在でしょうか。彼の初回の戦闘シーンでは度肝を抜かれました。目が見えていないのにあそこまで強いだなんて、さてはフォースの使い手かと思わされましたが、どうやら違う様子。フォースの存在を信じ、ジェダイにあこがれているだけのただの人間が、あんなに強い。であれば、フォースを使うこなずジェダイは一体どれだけ強いのだろう。彼の強さは間接的にジェダイの強さを物語っているのかなと思いました。

 だから、新規のお客さんに与えることができるのは期待だけだと思うのです。ジェダイはきっと強いのだろう、という期待。

 また、フォースがいかに強い力であるかということも、中盤でダースベイダーが見せてくれるだけでした。フォースって一体なんなの?という疑問が沸いてもおかしくありません。

 それに加えて、今作はフォースを使う人がいないにも関わらず、「ただの一般人がフォースの力を信じている」という旨の描写が多かったように思います。半分はチルアートがぶつぶつ言っていたせいなのですが、主人公のジンがローグワンに乗り込んだ団員にかける「フォースとともにあらんことを」は印象的なカットでしたし、反乱軍の管内アナウンスでもわざわざ最後に同じセリフを付け加えたりしていました。フォースの力がよくわからないのにも関わらず、やたらとフォースが存在感を帯びているわけです。

 ジェダイへの期待。フォースとは何かという疑問。新規層がそれらの受け皿を求めて、本編のシリーズを見てくれることになれば、ジェダイを出さなかったことがプラスに働きます。さて、新規層にはジェダイやフォースがどのように映ったでしょうか。

反乱軍の葛藤

 エピソード4,5,6を通して、ただの正義の味方としか描かれてこなかった反乱軍の面々。しかし今作でジンと行動を共にするキャシアン・アンドーは後ろ暗い任務を専門にしているような描写がいくつかありました。また、ローグワンに乗り込む反乱軍のメンバーも、スパイなどの汚れ仕事を担当していると言っていました。

 この設定は僕にとってはなかなか新鮮でした。戦争なのだからそういう裏の仕事が必要なのは考えてみれば当たり前なのですが、反乱軍はいつも真正面から馬鹿正直に戦いを挑んでいるのだという思い込みがあったのです。

 そしてそのような汚れ仕事を黙々とこなすキャシアンを、奇異な目で見つめるジンという構図もなかなか面白かったです。結局最後は反乱軍の正義を理解してくれるに至るのですが、「命じられたまま任務をこなすなんてトルーパーと一緒じゃない?」みたいな質問をキャシアンにぶつけた場面は印象的でした。反乱軍のために身を粉にして働いてきたつもりが、思考停止のトルーパーと同じだなんて言われたのだから、キャシアンは相当頭にきたでしょうね。この二人は仲良くなれるのかななんて心配しました。

 このトルーパー発言を聞くと、どうしてもエピソード7の展開を思い出さざるを得ませんでした。トルーパーとしての役目に疑問を感じて組織を裏切りレジスタンスの一因になったフィンは、命じられたまま任務をこなす存在ではありませんでした。単なる偶然かもしれませんが、最新作へのフックを狙って入れているのならすごいなあと思うばかりです。

 1人の人間としての反乱軍メンバーの葛藤とは別に、1つの組織としての葛藤が垣間見えるストーリーでもありました。このシリーズで度々描かれていることだと思いますが、民主主義を原則とする共和政は、時に何も決められない衆愚政治に陥ってしまいます。今作でも、ジンの証言だけを頼りにデススターの設計図強奪計画には賛成できないとする議員の存在により、評議会は紛糾。キャシアンたちが勝手に行動を起こすことになりました。

 これはもう、仕方のないことなのだと、諦めの匂いを僕は感じました。民主的に何かを決めようとすると、どうしてもこのような衝突は起こります。それが嫌ならば帝国のように上司からの命令は絶対、というシステムにするしかありません。余計な会議の必要がないので迅速に行動を起こせるとともに、恐怖による支配で高いコミットメントを要求できる素晴らしいシステムです。上司が優秀である限り、こちらの方が戦争には強い組織であることは間違いがありません。

 それでもなお民主主義を愛し、帝国のやり方に立ち向かいたいならば、勇気ある個々人が立ち上がるしかないのだと、この物語は言っているように思えます。たとえジェダイではなくても、勇気をもって行動を起こすことでしか現状は変わりません。

 個々人の葛藤と、組織としての葛藤をはらみながらも、反乱軍は民主的な正義を追い求める。危うげな儚さを感じてしまいます。

そして誰もいなくなった

 今作は主人公チームが全員死んでしまうというのも印象的でした。バッドエンドというわけではないのですが、こういう悲惨さを嫌うお客さんは一定数いることはわかっていたはずです。どういういきさつでこのようなラストにすることが決定したのかが気になりました。

 ファン目線で見ると、エピソード4との整合性をとったのかなという考えが浮かびます。この戦いで生き残った人物がもしいたなら、エピソード4でのデススター撃破の立役者として英雄視されているはずです。しかしエピソード4にはそのような描写は一切出てこないため、少し引っ掛かりを感じる部分になります。全員が亡くなってしまったのだとしたら、適当な表現ではないかもしれませんが、おさまりがよくなります。

 無名の戦士の尊い犠牲、という概念がそもそも美しいのだという考え方もあるのかもしれません。ジェダイの騎士が光だとすれば、ローグワンのチームは陰。対照的であればあるほど、どちらも存在感を増します。スターウォーズシリーズ全体を見渡す視点に立ったとき、鮮やかな陰影が見て取れる気がします。

 一本の映画としても、胸をうつものがあります。ビーチでジンとキャシアンが抱き合いながら、デススターの爆風に飲まれるシーン。ため息をついてしまいそうなほど、美しいと感じました。単純に映画としての完成度を最大化しようとしたとき、彼らが助からなかった方が良かったのかもしれません。

 そして、彼らが全員亡くなってしまったからこそ、一番最後のレイア姫のシーンが印象的になります。デススターの設計図が入ったディスクを受け取り、「これは希望です」と答えるその顔は、明るさに満ち溢れていました。多くの人命を犠牲にしてあの小さなディスクが彼女の手元に渡ったわけですが、当の本人は何も知らないかのようにほほ笑むのです。

 反乱軍は希望を糧に戦うという表現が印象付けられていましたが、レイア姫があの表情をするほどの希望があの手には握られているということになります。登場人物は全員亡くなったのになぜあのような笑みが出るのか、という違和感を感じるほど。だからこそ、いったいエピソード4では何が起きるのだと気になってしまう人もいるでしょう。

 こうして書いてみると、作品全体を通してエピソード4への期待や希望を繋ぐ作品になっているのだなと思いますね。

終わりに

 制作陣のインタビューなどは一切見ていないので、たぶん全く的外れなことも書いてきたと思います。単に映画だけを見て、僕が妄想したことを書きなぐりました。派生作品ですら、こんなにいろいろと考える余地を与えてくれるこのシリーズはやはり偉大だなと思いました。今後もこのような派生作品を撮ってくれると嬉しいですね。

 

エピソード7を見たときも同じように感想を書きました。

 

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー  オリジナル・サウンドトラック

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー オリジナル・サウンドトラック

 

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「エリートは筋トレと投資をする」と思い込むというライフハック

 エリートビジネスマン。彼らは仕事に全力で打ち込み、トレーニングジムに通って丈夫な体を作り、給料の一部を投資に回すことで手堅く資産を増やしていきます。そういう生き物なのです、あの人たちは。僕はそう思い込むことにしました。

何かを始めるにはエネルギーが必要

 僕はゲーム関連の企業に勤めています。ゲームをすることが趣味であると同時に、仕事にも繋がるという口実があるので、土日はもっぱらゲームをして過ごしています。長々とゲームで遊んでいるときにふと、このままでいいのだろうかという心配性な自分が顔を出すことがあります。

 学生のころは部活やサークル活動で日常的に運動をしていましたが、今はめっきり。また、ゲームというものは生活必需品ではありませんから、業界全体として比較的将来は不安定。こんな状況の中で、ゲームばかりして過ごしていてもいいのでしょうか。ジリジリと焦りが湧くことがあります。

 状況を打破するために、筋トレと投資を始めようと思い立ちました。思い立ったはいいものの、何か新しいことを始めるということにはエネルギーが必要です。「来週からでいいや」とついつい先延ばしにしてしまいます。また、途中でモチベーションが続かずにやめてしまうかもしれません。そう思うとますます始められません。

自己暗示をかける

 今まで二十数年生きてきて、こういうときにどうすればいいのか、大体分かってきました。僕自身のミーハーで見栄っ張りなところを利用して自分を動かせばいいのです。

 筋トレと投資をしていると、なんだかエリートビジネスマンっぽくてカッコいいと思いませんか。少なくとも僕はそう思います。

 僕は何かにつけてコンプレックスを抱えやすく見栄っ張りなので、エリートという存在にあこがれ、その仲間に入りたいと常々思っているタイプの人間です。筋トレと投資をすればエリートになれると思えば、それが不思議とモチベーションになってしまいます。「こういう服装が今風!」というファッション誌のうたい文句に踊らされる感覚に近いのかもしれません。

 全く無根拠にエリートになれると思い込んでやる気を出すのはさすがに難しいですが、今回はTwitterでフォローしているエリートな人たちが筋トレや投資について言及しているのを発見したのでやる気に火がつけやすかったです。

 そのエリートな人たちというのは、僕が勝手にエリートだと認定しているだけです。厳密な定義など必要ありません。この人たちみたいになりたいなと思えればそれでOK。彼らが筋トレと投資をしているのだから、世の中の他のエリートたちも当然実践しているわけであって、自分のその仲間に入りたいなという気分になったのです。こうなればしめたものです。

モチベーションを実利の外に置く

 これをちょっとカッコよく解説すると、モチベーションを実利の外に置いたと言うことができるのではないかと思います。

 通常、筋トレをする目的は、「痩せる」「健康増進」「ボディメイクしてモテたい」みたいなところだと思うのですが、掲げた目標が達成できなかったら辛いですよね。投資も同じで、資産を増やしたいと思っているのに、現実は資産が目減りしてしまうことさえあります。

 実利を目的として行動を起こす場合、それが得られなかったときにモチベーションが低下しがちです。目標が達成されない可能性があるというだけで、一歩踏み出すことにも迷いが生じてしまう。少なくとも僕はそういう経験をしたことがあります。

 一方で、筋トレと投資を(形だけでも)していればエリートの仲間入りができると考えると、始めることに対するハードルが低くなります。家で10回腕立て伏せをするだけでも筋トレですし、ジムに行って腹筋台で腹筋するだけでも筋トレをしていると言えます。

 実利が上がらなくても気にしません。日常的に筋トレをしていればエリートになれるので、体重が減らなくても関係ありません。とにかく筋トレをある程度継続的に行っていさえすればOK。エリートです。続けることに対するハードルも低くなるのです。

始めてみて見えるもの

 実際、僕は近所の市営のスポーツセンターに通うようになりました。結果にコミットする必要はないので月額数千円の会費を払う必要もなければ、専属のトレーナーさんも必要ありません。週に一回、マシンで適当にトレーニングをしています。 自分の中では、これでも立派に筋トレをしている状態なので、エリートになるための条件を満たしているということになります。

 最近では、ムキムキのお兄さんがフリーウエイトでせっせと鍛えているところを見て、僕もやってみたくなってきました。トレーニングの動画を見ながら、手探りで挑戦しているところです。自分で考えながら自分の体を鍛えていくというのは予想外に面白いですね。ちょっとだけ筋肉がついてくるとなお嬉しい。鏡を見るのが楽しくなってしまいます。

 いざ何かをやってみるといろいろ手を出してみたくなるのが僕の性格なので、とりあえず初めてみると良い方向に転がっていくことが多いです。今までも、そういう経験を度々してきました。

 投資についても同様に、まずは積み立て型の投資信託で始めることにしました。毎月毎月機械的に一定額を投資していきますので、申し込みさえクリアすれば勝手に投資が行えます。つまりエリートになれます。買うタイミングが自然と分散されるのでリスクも抑えめです。これを足掛かりに、いろいろと手を広げていきたいなと思っています。

 ただ、実際に調べてみると考えることはたくさんあるので、今はまだ勉強をしている段階です。いざ勉強を始めてみると投資というのはなかなか面白い世界ですね。経済についての知識も増えて嬉しいです。少し興味を持てば割と熱心に勉強できるというのも自分の性格なのです。

おわりに

 というわけで、投資はまだ実現していませんので、半人前のエリートビジネスマンになることはできました。投資もなるべく早く開始したいと思っています。もちろんエリートたるもの、仕事に本気で打ち込むのは大前提ですが。

 自分のミーハーで見栄っ張りな性格を使って、始めるのが億劫なことに挑戦することができましたよ、というお話でした。四半世紀ぐらい自分という人間と付き合ってみて、こういうやり方がいいだろうなというのがなんとなくわかってきたということです。

 じゃあ原点に立ち戻って、運動不足や将来の不安定さに対する回答になっているのか、というところは今後やりながら検証していく必要があります。実際に取り組んでみて初めてわかることは多いはずですので、始めることができてまずはひと段落越えたという段階だと思っています。

 

 

 以前こちらの本を読みました。書店にたくさん並んでいる自己啓発本の域を出ない内容でしたが、「欧米のエリートは筋トレをしているよ」という主張が展開されていました。こういうビジネス書もうまく使いながら自分に暗示をかけていけるといいと思います。

世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか?

世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか?

 

 

 

その他、お仕事について考えたこと

 

 

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北方大水滸伝51冊を読破した感想 - 今わの際に何を想うか

 北方謙三作、岳飛伝17巻を読み終えました。これにて、水滸伝全19巻、楊令伝全15巻、岳飛伝全17巻から成る「北方大水滸伝シリーズ」をすべて読破したことになりました。

 高校1年生のころ、父に「これ面白いから読んでみろ」と勧められて読み始めたこのシリーズ。あれから10年以上の時が流れ、私は大学院を卒業して社会人1年目となりました。物語の中でも途方もない時間が流れ、たくさんの登場人物が現れては消えていきました。

 この作品から「影響を受けたか」と問われたら、流石に「受けた」と答えるしかないでしょう。すべて合わせると50巻以上の超大作をコツコツと読み続けてきたわけですから。ただ、膨大な文章の中でこれぞと思う1節に出会ったとか、何百人もいる登場人物の中でこれぞという1人に出会ったとか、そういう影響の受け方ではありません。この北方水滸伝の世界そのものが、私の価値観に影響を与えたのだと思います。

 108人のヒーロー

 水滸伝は中国を舞台にした小説です。実在の話ではなく、明のころに書かれた伝奇歴史小説で、中国四大奇書の1つです(残りは「『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』)。

 12世紀の初め、北宋が支配する時代。役人の不正がはびこり、民は苦しい生活を余儀なくされていました。この状況を打破すべく、梁山泊という砦に108人の英雄が集い、巨大な国を相手に戦いを繰り広げていく痛快なお話です。

 北方先生は独自の解釈のもと水滸伝を再構成し、オリジナルの水滸伝の後の世界をも巻き込んで北方大水滸伝シリーズを書きあげました。敵味方合わせると何百人と出てくる登場人物の視点を章ごとに切り替えながら、物語が紡がれていきます。

 水滸伝のうたい文句は108人の英雄が革命を起こすということで、108人の中に序列はあるものの、特定の主人公が存在するわけではありません。北方水滸伝でも主人公という役目は存在せず、敵方の登場人物にさえもきちんと見せ場を用意します。

見せ場=死亡フラグ

 ここが肝となる部分なのですが、登場人物の1番の見せ場は、たいていが死に際のシーンです。章が切り替わり、今まであまり光が当たってこなかったキャラクターの視点が始まったら、多くの場合そのキャラクターは命を落としてしまいます。

 読み進めていくと、「その人物の視点になる」=死亡フラグだということに気づいてしまうため、自分の好きなキャラの視点になると嬉しい反面、そのキャラの退場を覚悟せねばなりませんでした。数々の英雄の雄々しい死とともにこの物語は行進を続けていきます。もちろん敵側の人間も味わい深い活躍をして死んでいきますので、一巻を読み切る間に何人も登場人物の死に際に立ち会うことになります。

 何百通りのもの今わの際が描かれるこの作品をずっと読んでいると、人が死に際に何を想うかということを常に考えさせられるのです。北方先生は、それぞれの登場人物の死に真正面から向き合い、ひとり英雄が物語から退場するたびに、弔いの酒を飲んでいたそうです(※)。それぞれのキャラが死に際に何を想うのかということを真摯に突き詰め、彼らが最期まで力強く生き切る様が切々と描かれます。

(※)参考:北方謙三『水滸伝』

死に際に何を想うか 

 登場人物が今わの際に考えることは様々です。家族や愛する人を想う人、戦友や師匠に思いをはせる人、自らの剣が届かなかった敵のことを考える人、全然関係ないことを考えている人などなど、性格や状況によって様々なことを思い浮かべながら息を引き取っていきます。

 翻って、自分が死に際に何を想うのだろうと嫌でも考えさせられるのです。どんなことを考えながら死にたいのかをイメージしてしまうのです。20歳にも満たない若造がそんなことを真剣に考えるわけないだろうと思うかもしれませんが、本当に考えてしまうのです。あまりにも見事な英雄たちの死を、何度も何度も見る羽目になるので。

 今のところ、自分の死に際をイメージしてみたところで確たる像を結ぶことはできないのですが、でも1点だけ、後悔はなるべく残さずに死にたいということは確実に言えます。

英雄たちの最期

 梁山泊の英雄たちは、自らの死に直面したとき、「いやだ」「死にたくない」といったような感想を漏らすことはほとんどないです。「戦わなければよかった」なんていう後ろ向きな考え方を持つ者もいません。彼らは、自身の役目を堂々と果たし、戦うべき相手に全身全霊でぶつかり、たとえ負けたとしてもやりきった満足感の中で死んでいきます。

 戦いの末の死を肯定するつもりはないのですが、避けられない運命としての死が自分に迫ったとき、今までの人生の中で何かをやらずに逃げるということをしなかったからこそ、曇りのないある種晴れやかな気持ちで最期の時を迎えているのでしょう。

 そして雄々しく戦った末の立派な死は、他の仲間によって広められ、子供の代まで連綿と語り継がれていきます。楊令伝や岳飛伝では108人の子供の代が活躍するのですが、彼らの中にも確かに受け継がれ、英雄たちは次の世代の記憶の中で生き続けることになります。

 このシリーズで一番最初に命を落とす「楊志」という武将は、妻と子の3人で団らんしているときに100人以上の敵方の集団に囲まれながらも、2人を守り抜き命を落とします。彼の意志は子の楊令へと受け継がれ、楊令は「楊令伝」における最強の頭領として成長していきます。

 そして、シリーズにおいて最後に命を落とすのが「岳飛」です。「楊令伝」の時代から戦いにまみれた人生を送ってきた彼は、驚くほど安らかに息を引き取ります。最後の最後まで徹底的に戦い抜いた末の彼の死は、北方水滸伝の戦いの歴史を終わらせる終止符となり、読者に物語の終幕を悟らせました。

「あれをやっておけばよかった」なんて

 私も、水滸伝の英雄たちのように、後悔を残さずに死ねるでしょうか。大きな挑戦のチャンスが自分に巡ってきたとき、失敗することを恐れてチャレンジしなかったら、きっと後悔するでしょう。でも、挑戦することはやはり怖いものです。

 しかしちょっとおおげさに考えてみると、挑戦しなかったという後悔は今わの際まで引きずられるものになるのかもしれません。死ぬ瞬間になって、「あれをやっておけばよかった」なんて思いながら逝くのは避けたいものです。

 それを考えれば、ちょっとぐらい失敗することが何だというのでしょうか。その挑戦で大成功を収めることができれば、死後も語り継がれる功績になるかもしれない。梁山泊の英雄たちは、いつも死と隣り合わせの無謀な戦いをしていたというのに、少しばかり恥ずかしい思いをすることさえ、私は耐えられないのでしょうか。そんなわけはないはずです。

 人生の選択肢に迷ったとき、私はなるべく後悔しなさそうな方を選ぶということを続けています。怖いこともありますが、北方水滸伝の何百人もの登場人物が、そっと背中を押してくれていると思って、勇気を振り絞っています。

 51巻からなるこの大水滸伝シリーズを読破することができて本当に良かったと思っています。何かアクシデントがあって途中で連載が止まってしまうことも十分にありうる世の中で、ほぼ一定のペースで刊行を続けてくれたことに感謝します。北方先生、ありがとうございます。

 

 

そのほか、本について書いたこと。

  

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)

 

 

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