理系院卒のネットワークなブログ

意外なところに「つながり」ってありますよね

祖父が亡くなりました

  先日、僕の祖父が亡くなりました。気持ちの整理をつけるために、ここ数日で起きたことを覚えておくために、そして祖父との思い出を記録しておくために、文章を書き残しておきたいと思います。

 

 死因はガンでした。ガンが見つかったのは2年ぐらい前だったと思います。タバコが好きな人でした。タバコを吸う人がよくかかる部位のガンでした。祖父はタバコをやめて、手術をして、ガンはすべて摘出されました。

 しかしガンは転移していました。手術で弱った祖父の体力では、二度目の治療を行うことができず、ゆっくりとガンが体を蝕んでいくのを見守ることになりました。

 

 たまたま友人の結婚式に出席するために実家に帰ったついでに、近所にある祖父の家に顔を出したときのことがあります。祖父は弱っていました。消化器系にガンが転移したということで、気分がすぐれず、食事を全く食べられなくなっていました。

 僕にとって肉親が病に倒れたのは初めてだったので、その姿を見てとてもショックを受けました。人が死に向かっている。自分は何もすることができない。励まし方すらわからなくて、祖母と母が世話をするなかで立ちすくんでいました。自分が情けないのか、弱った祖父を見るのが悲しいのか、涙が出そうになりました。

 祖父は仕事を頑張れと励ましてくれました。いま思えば、なぜ自分の方が励まされていたのでしょう。辛いのは祖父の方だったはずなのに。

 

 数か月後、祖父がいよいよ危ないので週末に一度実家に帰ってくるように母から連絡がありました。土曜日の午前中に用事があって、それが終わってから新幹線に乗りました。

 祖父は病院のベッドで寝ていました。祖父の家の近くにある、あまり大きくない病院の、小さな個室でした。窓からは病院のベランダが見えました。洗濯物が干せるようになっていました。

 結婚式のときに会ったときよりも、祖父はさらに弱っていました。見た目が衰弱するのは、ある意味当然のことなのでそこまでショックではなかったのですが、祖父は声を出せなくなってしまっていました。僕が見舞いに来る1日前までは、普通にしゃべることができていたそうです。致命的な遅刻でした。

 声帯を震わせて発声するエネルギーがなくなってしまったようでした。口を開けて、息をひゅーひゅー言わせながら、しゃべりかけようとしてくれたのですが、何を言っているのか誰にも分りませんでした。

 意識はしっかりしていて、耳の機能は衰えていませんでした。こちらの話は理解してくれて、首を縦に振ったり横に振ったりしてくれるのに、祖父の伝えたいことはほとんど理解できませんでした。そのことを祖父は非常に悲しんでいるように見えました。簡単に解決できそうな問題なのに、解決することができませんでした。

 祖父の口元に耳を思いっきり近づけて、彼が必死にしゃべりかけてくれるのを「うんうん」言いながら聞いていたのですが、何も分からず、でも祖父は僕のことを認識して笑顔で話しかけてきてくれました。いろんな感情が沸き上がってきて、母と父の前でボロボロと泣いてしまいました。

 

 ノートに文字を書いてもらうことを試しました。起き上がることができなくなっていたので、寝たまま手を上げて文字を書くのはとても辛そうでした。

 渾身の力を振り絞ってくれて、少しだけコミュニケーションが成り立った瞬間もありました。僕が一人暮らしをしているという話を祖父に聞かせていたときのことです。たまには自分で料理を作っているのだと言うと嬉しそうにしていました。祖父の得意料理は何かと聞いたところ、直線を重ねた幾何学模様をノートに書いてくれました。その下に、カタカナで「サカナ」とも。直線は、簡略化した魚の絵でした。

 祖父は釣りが好きでした。父が釣りの話を祖父にすると、祖父は満面の笑みを浮かべました。笑顔を作るのにもエネルギーが必要だったのだと思うのですが、積極的にコミュニケーションを取ろうとしてくれました。

 「あいうえお」を表にして、祖父に指さしをしてもらうことで会話をしようと試みましたが、それはできないようでした。なぜだったのかはわかりません。目があまり見えていなかったのかもしれません。

 

 

 

 日曜日には僕よりもさらに遠くに住んでいる僕の弟も帰ってきました。僕らふたりを見たときの祖父の嬉しそうな顔。土曜日よりも少し元気になったようでした。声は相変わらず出なかったのですが、口の動きともれる吐息で、言わんとしていることがわかるときもありました。僕と弟の名前を呼んでくれたのは、とてもはっきりとわかりました。

 祖父はずっと寝たままの姿勢でいるのが辛いらしく、電動ベッドを持ち上げてほしいというジェスチャーをたびたびしました。ゆっくり時間をかけてベッドを起こしました。上半身が起き上がると咳が出てしまうらしく、非常に辛そうだったのですが、姿勢を変えたかったみたいでした。

 のどが渇いたので水を飲みたいというジェスチャーも何度も見せてくれました。しかし、消化器官が弱り切った祖父は水を飲ませてはいけないと看護師さんに言われていて、ジェスチャーをするたびに、ダメと言わなくてはいけませんでした。祖父はとても悲しそうな顔をしました。ささやかな願いを叶えてあげられず、僕らもとても悲しい気分になって、他のことで祖父の気を紛らわそうと必死になりました。

 月曜日には仕事に戻らなければならないので、その日は早めに東京に戻りました。夜遅くまで付き添うこともできたのですが、弱った祖父を見続けるのは正直言って辛くて、逃げるようにして電車に乗りました。情けない。

 

 

 日曜日の時点では、あと2週間から1か月ほどの余命だろうという話を看護師さんから聞きました。いまは点滴で水分と栄養を補給できているが、そのうち点滴の針が入らなくなってしまう。それがカウントダウンの始まりだと。

 しかし祖父は翌日の月曜日に逝ってしまいました。日曜日と同じように意志の疎通を行っていたのですが、あるとき血圧が急激に低下して、そのまま一気に息を引き取ったとのことでした。母と叔母が付き添っていて、叔母が祖母を呼びにいっている間に、亡くなったとのことです。

 大きく大きく、「ふうーっ」と息を吐き出して、呼吸が止まったと母は言っていました。人が死ぬ瞬間を母は見たと言っていました。そのときに感情をすべて吐き出したので、葬儀のときには比較的落ち着いていられたとも言っていました。

 

 月曜日の夜に訃報を聞きました。上長はすでに帰宅していたので、非常識かなとも思ったのですが取り急ぎメールで一報を入れ、火曜日の通夜に間に合うように仕事の算段をつけました。火曜日の朝一番に慶弔届を出し、水曜日は一日休むための準備をして、新幹線で実家に帰りました。

 家に着いたとき、母と父は全く普段通りの様子でした。しばらくすると弟も帰ってきて、みんなで喪服に着替えて通夜へと向かいました。社会人になりたての僕と弟、そして父がそろって黒いネクタイを締めているのを見て、自分も大人になったものだと場違いな感想を抱いたりしました。

 通夜は親戚だけで小さくとり行われました。祖父の娘である僕の母と叔母が中心となって切り盛りされていました。叔母のこども(僕のいとこ)とも久しぶりに会いました。僕と弟も入れて4人だけの孫です。僕より年下の彼らも喪服に身を包んでいて、時間の流れをまた感じました。

 

 次の日が告別式でした。祖母や母は努めて明るく振る舞っていたのですが、別れの瞬間はみんな涙が抑えられていませんでした。孫である僕らも、祖父が大好きだったので、みんなで泣きました。祖母が口うるさいタイプなので、祖父はどちらかと言えば口数は少ない人だったのですが、寡黙なわけではなく、コミュニケーションを取るのは好きな人でした。

 釣り道具を棺に入れてあげました。向こうにいって、存分に釣りを楽しんでくれているといいなと思います。

 火葬場でお骨を拾って、精進落としの料理を食べて、一通りの葬儀が終わりました。

 

 亡くなる直前にお見舞いに行くことができて、今のところとても大きな後悔があるというわけではありません。ただいろいろもっとああすればよかったということはあります。

 僕が孫の中で最年長なのですが、ひ孫の姿はおろか、お付き合いをしている女性すら見せることができなかったのは1つ心残りになりました。祖母が亡くなる前にはなんとかせねばと思います。

 祖父が亡くなって日が浅いため、まだ実感が湧いていない部分もあるのでしょう。ふとしたときに、祖父がもうこの世にいないことを思い出す瞬間がきて、死という別れの遠さを思い知るのかもしれません。

 死にゆく祖父を見ているのは辛かったのですが、周りの人間にできる最上の貢献は、看取ることなのだと思いました。それがわからず、目を背けてしまったのは良くなかった。仕事を言い訳にして帰らないという選択肢も一瞬浮かんだのですが、それだけはいけないとその選択肢が自分の中ですぐに消えたのは、良かったことだと思います。

 自分の両親を見送るとき、そして自分が見送られる側になるとき、自分に家族がいることはとても大事だなと思いました。生涯の伴侶を見つけなければという想いが強くなりました。

 また何か書くと思いますが、とりあえず今日吐き出せるのはここまで。終わり。 

 

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